連関資料 :: レポート

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  • 政治思想後期自由レポート
  •  政治思想史レポート ルソーの「新しさ」~完全なる近代化について考える~                       「ルソー」という名前は中学、高校の頃から社会や倫理の授業でたびたびきいており、親しみのあるものだった。大学の政治思想史での講義では政治思想家としての彼の側面をみてきたわけだが、彼には教育思想家という側面もある。今回はこのレポートを足がかりに教育思想家としての彼についてとりあげたい。 ルソーの教育思想や近代性などといったものといったものについて考えるときに、一般的によくいわれるものとして、子どもの自由な身体活動や感覚的経験の重視、言葉や書物中心の教育への批判、残酷な体罰や強制的教育への批判、子ども期固有の幸福な時間への配慮などがあげられる。今回はルソーの教育思想を、「ルネサンス的近代性」と「19世紀後半以降の近代性」の狭間に立つ過渡期的な思想として、その「新しさ」がどのような点だったのであるかについて、考えてみたい。  最初に、ルソーそのものをとらえるために、ルソー以前の、エラスムスやロックらによるルネサンス的教育というのがどのようなものだったかというところから確認していきたい。簡単にいえば、ルネサンス以来の近代的教育は、礼儀作法と古典語の教育を重視したものであった。礼儀作法の教えというのは、「人との交際において、どのようにふるまえば人々から好意と尊敬をもって受け入れられるか」というものであった。このことに関するふるまいのルールは、シビリテ(civilite)とよばれた。 次に古典語の教育とは、純粋な古典ラテン語を教養ある人々の生きた社交の言葉として、その価値を再確認するものであった。この場合も、人と人との交わりにおいて、教養のある人だと思われるための言語教育だったのであり、その根底においてはやはり礼儀作法が意識されていた。  ルソーがルネサンス期の近代性を批判したのは、まさにこの礼儀作法と古典語の教育の点についてであった。彼はこのような教育について、「何一つ美徳を身につけないで、あらゆる美徳の外観を身につけた」ものであるだと指摘したのだった。エラスムスやロックらにとって、外観とは、人々の内面を表す記号を意味するものであったのだが、ルソーにとっては、外観とは相互の不信と疑惑の温床であった。礼儀作法が行き渡れば全ての人間が同じ外観をもつようになる。そうなってくると人々はさらに記号を差異化して、ますます複雑な作法を積み重ねる。外観はもはや人々の内面を表す記号ではなく、内面を覆い隠すヴェールとなり、人々は互いにそのヴェールの下を疑心暗鬼で探りあうのだ、ということである。このルソーの主張の頃から、社会的規範の力点が、外観や行為から、内面の良心や感情へと移行するようになる。  では、このような内面的道徳をどのような教育によって実現しうるのか。このことについてルソーは、『エミール』の中で、自分の自然の欲求に忠実でありながら、かつ、社会的義務を果たすことできる一貫した人間(たぐいまれなる人間)をつくる技術の問題として語ることになる。ロックらとルソーの考えの違いは、子どもという存在の位置づけ方にあった。ロックらにとっては、子どもはすでに社会的存在であり、他者との相互的関係性の中にある。子どもは他者から好意を持たれる喜びを知っているが、どのようなふるまいが他者からの好意をもたらすのかを知らないため、それを教えるためには、相互行為の実地訓練と、大人による理性的な説得が必要であると考えた。一方、ルソーにとって子どもとは前社会的な存在であり、肉体的な快・不
  • ルソー 政治思想 ルネサンス ロック エミール
  • 550 販売中 2007/11/30
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  • 心理学実験レポート ソシオメトリックテスト
  • 目的  集団における交友関係あるいは関係構造を理解するためには多種多様の方法が考えられる。その一つがソシオメトリックテストである。ソシオメトリー(Sociometry)はソシオメトリックテストの分析技法を表す用語として多く用いられ、その発想は、モレノ(Moreno,J.L.)に始まる。ソシオメトリーの語源は、ラテン語のsosius(social)とmetrum(measurement)、あるいはギリシア語のmetron(measurement)を結び付けたものである。日本語に置き換えれば社会測定、あるいは社会測定法となるが、通常原語のまま用いられている。ソシオメトリーについてモレノは、人間間には基本的に愛憎の問題があるとし、ソシウス(socius)、つまり仲間という基本的社会関係の解明と測定とに焦点をおくソシオメトリーの理論と技法とを展開した。さらにモレノはソシオメトリーを「集団の心理的な特徴を数学的に研究すること」であり、「数量化のための実験的技法や得られた結果そのもの」をさす場合もある。その理論体系は、人間の自発性と創造性を原点とする世界観から始まり、社会構造論、人間関係論、役割理論などさまざまな側面を含む壮大なものとなっている。たとえば彼の社会構造論は「社会的三分法(social trichotomy)」と呼ばれ、我々の社会が、現実に存在する「外部的社会」と、心理的な構造としての「ソシオメトリック・マトリックス」、そしてこの両者の力動的統合としての「社会的現実」から構成されていると主張する。したがって社会的現実を理解するためには、外部的社会と心理的な構造の両者を別個にとらえ統合する視点が必要とされる。外部的な社会の構造は法律などをてがかりに用意に記述しうるが、内的なマトリックスの理解はより困難である。内的なマトリックスには、まず距離を意味する「テレ(tele)」という用語で表される個人間の感情の流れあう現象がある。テレの基本形は、牽引(attraction)、反発(repulsion)、無関心(indifference)である。そして、ある個人は家族・友人などと緊密にテレによって結ばれているが、特定の個人と彼を焦点として集散する一群のテレとは集団関係を構成する機能的な最小単位としてみられることから、これを社会的原子(social atom)という。さらに社会的原子がいくつか結合した社会的分子、社会的分子が相互に連結したもの(いくつかのグループの原子・分子が結びついてネットワーク化したもの)をソシオイド(socioid)とよぶ。  ソシオメトリックテストは、モレノによって「社会集団が組織化されている程度を測定する道具」として定義されているが、一般には集団成員間の人間関係を「選択(親和)」と「排斥(反感)」を軸に分析する手法として知られている。テストそのものは、対象となる集団の範囲や場面を明記した上で、被験者に親和感・反感を感じさせる成員やその理由を列記させるだけで完了する。その際、選択・排斥の人数を制限したり、選択のみあるいは排斥のみについて尋ねることもある。結果はまず、全成員を行と列双方に並べ、すべての選択・排斥関係を記入した「ソシオマトリックス(sociomatrix)」としてまとめられる。ついで、相互選択関係(互いに選択している関係)や相互排斥関係(互いに排斥している関係)を中心に、「ソシオグラム(sociagram)」が作成される。ソシオグラムは成員間の関係を図示したもので、下位集団間の関係や、スターと呼ばれる人気者、集団に溶け込めな
  • ソシオメトリックテスト ソシオメトリー 日本女子大学 実験レポート
  • 550 販売中 2007/12/05
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  • 日本法制史レポート
  • 日本における離婚法の変遷を述べていく。   上代では、婚姻は男子が女子を捜し求め、女子が男子の申し込みを承諾すると男女の間に婚姻が成立したことになる。のちに女子の父母の承諾を求めるのが普通になったようだが、絶対的な条件ではなかった。結婚は男子が女子の家に移るか、男が別に家を建ててそこに住む形で夫婦別居制だった。離婚権は夫に属し、妻を離婚することを「ことどをわたす」といった。  上世においては、律令によって離婚に関して規定がされるようになった。4つの離婚があり、和離、棄妻、義絶及び夫の失踪であった。和議とは、夫婦の協議上の離婚である。棄妻は一定の原因の存する場合に、夫が一方的になし得る離婚である。その原因は50にして子どもがない場合や淫泆、舅姑に事へず、口舌、窃盗、妬 忌、悪疾の7つである。これらのなかでも淫泆と悪疾の場合を除いては、その他の自由があっても、妻にめとる時賤しくて後に尊きなどの事実があれば、棄妻し得なかった。夫は棄妻の場合には届け書を作って所轄の官司に提出することになっていた。義絶は、夫が妻の祖父母や父母を殴打したような場合、夫、妻は互いに離婚すべきものと定められていて、
  • 法制史 法大 レポート1
  • 550 販売中 2008/09/05
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  • 実験レポート(Diels-Alder)(up)
  • <結果> (収量と収率) (試料2の融点測定) 融解開始温度:182℃  融解終了温度:186℃       文献値:175℃ (試料4のTLC) (Rf値) [0 min] ① 0.46 ② 0.46 ③ 0.46 [45 min] ① 0.41 ② 0.20 0.41 0.59 ③ 0.06 0.41 0.59 [15 min] ① 0.5 ② 0.5 ③ 失敗 [60 min] ① 0.44 ② 0.06 0.44 0.59 ③ 0.06 0.44 0.59 [30 min] ① 0.35 ② 0.06 0.35 0.65 ③ 0.09 0.35 0.65 <考察> (1日目の実験) 試料1から試料2を生成する際、収率がわずか66.6%であった。この原因の一つは吸引濾過の段階だろう。ろ紙についた試料をうまくとれない、試料をブフナー漏斗に移す際に容器に試料が残ってしまうことが考えられる。これは試料をブフナー漏斗に移す際に、水で試料を溶解する回数を増やすこと、吸引濾過の回数を増やすことで改善ができる。 しかしながら一番の原因は加熱還流中にリービッヒ冷却管とナス型フラスコがしっかり結合されていなかったことだろう。そのため蒸発した試料の一部が隙間から系外に逃げてしまったと考えられる。この点は2日目の実験でTAに指摘されたため、2日目の実験では改善されている。 試料1に対する実験では、試料1が水分子によって開環する反応が起こると考えられる。 試料2は白色針状結晶であった。 この試料2と推測される物質は融点が175℃であるので、融点測定の結果とも矛盾がない。 (2日目の実験) 試料2を秤量し直すと、2.6gしかなかったので、38班から0.34g補充して実験を行った。試料2に対する実験では濃硫酸を触媒とするメタノールとのエステル化反応が起こると考えられる。 この反応は脱水反応なので、系に水が存在すると反応が阻害され、試料4→試料2の逆反応が生じてしまう。そのために、加熱還流の際にリービッヒ冷却管の上部に塩化カルシウム管を取り付けた。塩化カルシウムは脱水剤である。しかしながら、塩化カルシウムは連続して用いることができないので学生実験には不適である。そのため、今回は沸石を代わりに用いたが、水は完全に遮断できないので、どうしても試料2が残ってしまう。 加熱還流の後に、水とエーテルを加えて分液して、水層を除去した。水層には残ったメタノールと硫酸の反応物硫酸ジメチルや硫酸が僅かに溶けているからである。その後、残った有機層にNaHCO3を加えて水層を除去した。水層には、試料2のナトリウム塩と硫酸ナトリウムが溶けているからである。そしてMgSO4で水分を除去した後、濾過した。濾過液をエバポレーターで減圧蒸留し、残ったメタノールを除去する。そして乾燥したフラスコで秤量する。水分を極力入れない理由は次の反応でも水が反応を阻害するからでもある。濾過時に少しこぼしてしまったので、本来ならもう少し収率は高かったのかもしれない。 試料4に対する実験では、ナトリウムメトキシドが塩基として試料4のα水素(カルボニル基に隣接した炭素上の水素)を攻撃することでケト-エノール平衡が移動し、異性化が起きる、つまりエンド型からエキソ型に変わる。 しかしながら2箇所ともエキソ型に変わると立体障害のために不安定になるので、片方のみ反応は進行すると考えられる。また、この反応は平衡反応であるので反応物もある程度残ると思われる。基本的にエキソ型よりエンド型の方が安定なので、その量は少なくないと考えられる
  • 有機実験 ディールスアルダー反応 TLC 構造式多用 東工大
  • 全体公開 2008/04/14
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  • 介護概論レポートH198
  • 介護概論レポート  「認知症の方の排泄支援のポイントを用具を含めて述べなさい。」  認知症の症状のために周囲の方は、「どうしてこんな行動をするのだろう」、「介護しているのにわかってくれない」と、ついつい考えてしまうことがある。 認知症の高齢者は、何もわからなくなっているのではない、記憶が不確かになることや、どう考えれば良いか、何が起こっているのかと、いったことが、わからなくなり、焦り、混乱した状態にある、ということを理解する必要がある。 このような認知症高齢者の心のうちを理解して接することが、認知症の高齢者とのより良い時間を過ごすうえで、大切なことである。そのためには、介護や福祉サービスを上手
  • 認知症の方の排泄支援のポイント
  • 550 販売中 2008/05/25
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  • 医学一般レポートH19
  • 医学一般レポート  「いわゆる成人病が生活習慣病といわれるようになった理由について。」  生活習慣病とは、「食習慣、運動習慣、休養、喫煙、飲酒等の生活習慣がその発症、進行に関する疾患群」のことである。従来の成人病の発症と、生活習慣の強い関連が明らかになったことや、近年、健康的な生活習慣を確立することにより疾病の発症を予防する「一次予防」の考え方が重視されるようになってきたことに着目し、1996年の公衆衛生審議会において提言された概念である。 予防段階のステップは、一次予防、健康的な生活習慣の確立(健康増進・発症予防)、二次予防、定期的な健康審査(早期発見・早期治療)、三次予防、リハビリテーショ
  • 成人病が生活習慣病といわれるようになった理由
  • 550 販売中 2008/05/25
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  • 触2点閾レポート
  • はじめに ものさしや目盛は物質の量や長さを表すだけではなく、その測定の結果として、その物質の性質や価値をも表す価値判断の目安として社会的にも非常に馴染みのあるものである。例えば、Aという2ℓ入りの水と、Bという500ml入りの水があったとする。これを、少し喉が渇いたというときではAの水ではなく、Bの水を口にするはずである。なぜなら、Aの2ℓという水の量は、のどの渇きを満たすのに十分すぎる量であるということが、「2ℓ」という量を示す目盛によって価値判断されるためである。このように、ものさしや目盛は物質的な事物を測定することにおいて、必要不可欠なものであるといえる。  では人間の内面世界、つまり精神的な事物に関してはどのようなものさしや目盛が存在し、どのような測定を行うのだろうか。測定対象となりうる精神的な事物として挙げられるのは、満足感や達成感といった感情や情動、またかゆい、痛いといった触覚的感覚の量などである。しかしこれは、目に見えるものではないので~cmや~ℓといった物質的な量を表す単位によって表すことができない。言い換えれば、心という個人の内部の現象を物質的な単位によって測定することができないのである。 この問題は心理学の科学としての成立においての非常に大きな問題であった。そして、この精神的な事物に関する判断基準の土台となったのが精神物理学に基づいた測定法であった。精神物理学とは、フェヒナーが心と身体の関係を科学(数学)として提唱し、物理的または数学的な考え方で心をとらえようとする学問のことである。そして、精神物理学では感じるか感じないかの境界値を0とし、0よりプラスを感じる、0よりマイナスを感じないとすることで個人の内面的事象の測定法を体系化した。そして、この境界値のことを閾値と呼ぶが、閾値よりプラスを感じるとしているということは、閾値を越えれば測定対象である事象は発生するということになる。つまり、閾値が感覚や反応が生じるために必要とされる最小限の値であるといえる。  そして、この概念に基づいて閾値を計測する精神物理学的測定法として、3つの測定法がある。まず1つ目はある決められた感覚を得られるよう被験者自身が自由に刺激を調節する調整法である。この測定法は、簡易で時間の節約ができるが、被験者の調整が難しく予また被験者の予想が入り込み、事象の変化に関する弁別の閾値である弁別閾の測定は困難である。2つ目は、比較刺激の変化段階を実験者が予め設定し、無作為に呈示するという恒常法である。この方法は、被験者が自由に調節できる調整法とは対照的に厳密な測定法であるが、それぞれの変化段階において同回数反復を行い、またこの反復回数を多くする必要があるために、時間がかかる。そして3つ目は比較刺激を実験者が段階的に調節するという極限法である。極限法では比較刺激を小さい刺激から小刻みに大きくしていく上昇系列と、大きい刺激から小刻みに小さくしていくという下降系列の2つの手続きを行い、その2つの系列の中間の値を閾値とする。また、恒常法に比べ短時間、調整法に比べて被験者の予想が入りにくい。   本研究では、個人の内面的事象の一つとして、触覚刺激による反応を取り上げ、上に述べた精神物理学的測定法の1つである極限法を用いて触2点における閾値を測定した。この触2点における閾値、触2点閾とは、触覚的に2点が2点として弁別されるために必要な2点感覚の臨界値のことである(心理学実験指導研究会,1985)。また、近年感覚の測定における精神物理学的な問題に適応されることが多くなった信号検出
  • レポート 心理学 触2点閾 認知 知覚 ウェーバー 精神物理学
  • 550 販売中 2008/01/28
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  • 教育社会学レポート「いじめ」
  • 被教育体験の分析によるいじめの実態 私の通っていた小学校では、ある一人の男子(A君)を標的としたいじめが流行っていた。いじめていた人はクラスの中のほとんどの生徒であり、皆はA君に触れると「A菌が体に付いた」といって、他の生徒にその菌を回していくというものだった。中には特にいじめの中心となっていたグループが、A君に掃除の当番を交代させたり、給食を奪ったりしていた。しかしA君には数人の友人(友人といってもそこまで仲がいいというわけではなかったが)がいており、その友人はA君に対しては普通に接していたものの、周りからのいじめをとめるような行為は一切しておらず、ただA君がいじめられているのを黙って見ているだけだった。いつも自分がいじめられている事でA君は隠れて泣き続け、ある日2階のベランダから飛び降りると言って柵を越え、危機一髪というところで先生に止められ、そのとき初めて先生はA君が皆からいじめられているということに気づいた。急遽HRが開かれ、先生はいじめていた皆をひっぱたいた。それからいじめはなくなったものの、皆のA君に対する意識や感情が変わることはなかった。 このいじめの例について分析してみると、まずこのいじめは被害者であるA君、加害者であるいじめの中心となっていた人達、観衆であるいじめをはやしたておもしろがってみていた人達(多数)、傍観者であるいじめを見て見ぬ振りをしていた人達(少数)とA君の2,3人の友人 からなる四層構造からなっている。  そもそもA君がいじめられている原因は、A君の持つ独特の雰囲気や行動、性格から皆はそれを生理的に受け付け難く、それがいじめにつながっている。しかし、先生はなぜA君のいじめに気づかなかったのか?それはA君が強制された同意のもとでいじめを受けていたからである。これは「嫌がっている者の姿」を隠し、周りからはふざけて遊んでいるようにしか見えないという、とても悪質ないじめである。A君が加害者に対して自発的服従をすることによって教師と生徒の間で無意識にいじめを進行させていたのである。 ところで、傍観者はなぜA君の友人でありながら助けようとしなかったのか。A君の友人でありながら、なぜいじめている人達を止めようとしなかったのか。この件に関しては、傍観者である友人は加害者や観衆を否定し、A君の見方になることによって自分も皆からいじめられる対象になるのではないかという不安からなるものである。また、A君の友人でない傍観者は、意図的にいじめ継続を期待しているという面もあった。これはいじめの加害者を利用し、心理的な満足を得ようとしているのである。このことから、傍観者のようにいじめを見て見ぬ振りをするのはある意味加害者性を帯びているといえる。 次に、HRを開いてからいじめはなくなったものの、皆のA君に対する意識や感情が変わることがなかったのはどうしてか。それは、皆がAに対してラベリングをしたからである。というのは、皆はAのことを「彼は生理的に受け付けない」というレッテルを貼ることであり、皆がHRで先生に教わったことは「いじめをしてはいけない」ということであるがゆえに、A君に対する意識や感情は変わらなかったのである。またA君はラベリングによってアイデンティティが形成され、彼自身を悪い方向になるような環境をクラスで形成されてしまったのである。 また、このようないじめもあった。クラス内のある男子(B君)は明るい子で、皆からは親しまれている存在だった。毎日のように昼休みになっては運動場でドッヂボールやバスケットボールをやって遊んでいたのだが、特にB
  • 被教育体験 いじめ ラベリング 四層構造 強制された同意 アイデンティティ 中心一周縁
  • 550 販売中 2008/01/29
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  • 外国法 イスラム法レポート
  • 外国法特殊講義レポート 現代におけるシャリーアの必要性 今日、全世界のムスリム人口は約13億人に達する。まさに地球上の五人に一人はムスリムということになるわけだが、そのムスリムの一切の思考や行動を決定しうるものとしてイスラーム法のシャリーアがあることを講義で知った。「法」といったら、社会をうまく機能させるために人間がつくるものだとばかり考えていた私にとって、社会の方がその法に従わなければならない、また法が社会を育
  • 法学 イスラム法
  • 1,650 販売中 2008/03/21
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  • 英米文学入門レポート
  • 英米文学入門    オスカー・ワイルド「サロメ」                オスカー・ワイルドの戯曲「サロメ」は、ユダヤの王女・サロメが宮殿の水溜の中に住む預言者・ヨカナーンを見て恋に落ち、宴席で義父である副王・ヘロデに踊るようしつこくせまられ、踊った褒美として預言者ヨカナーンの首を求めた結果、サロメもヘロデの命令で殺されるという悲劇である。  私がこの作品をおもしろいと思った点は、サロメという主人公の人物像である。この作品の中で、サロメは高慢ではあるが純粋な性格の持ち主のように描かれている。例えば、ヨカナーンの声を聞いてその姿を見たいと思ったサロメは、周りの奴隷たちにヨカナーンを水溜から出すように命じる。奴隷たちがそれを拒むと、サロメは自身に思いを寄せているシリア人の青年の弱みをついて、ついにヨカナーンを水溜から出させる。それだけでなく、サロメはヨカナーンの姿を見て恋に落ち、シリア人がどれだけ引き止めようとも、ヨカナーンがどれだけ侮蔑の言葉を浴びせようとも、サロメはヨカナーンに近づくことを諦めない。結局、サロメを止めることができなかったシリア人は自害してしまうが、サロメはそのこと
  • オスカー・ワイルド サロメ 英米文学
  • 550 販売中 2008/04/23
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  • 2008年の人権問題 レポート
  • 人権と社会レポート{課題2} 2008年の人権問題 『ネットカフェ難民について』 2008年の人権問題の中で、大きく取り上げられたネットカフェ難民について考える。 ネットカフェ難民とは、これまで過ごしていた自宅(実家やアパート)や寮を諸般の事情で退去して、24時間営業のインターネットカフェや漫画喫茶で夜を明かし、日雇い派遣労働などで生活を維持している者を指す。しかしネットカフェ難民とは、いわゆる俗語であり、言葉の定義はあってないようなものである。 ネットカフェ難民が、大きく取り上げられたのは、2007年前後から首都圏で増加していたワンコールワーカーに従事する若者を紹介したドキュメンタリーがきっ
  • 人権 社会 問題 携帯電話 労働 若者 ネット 契約 雇用
  • 550 販売中 2009/02/26
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