連関資料 :: 人間が人間であることとは

資料:341件

  • からだの危機と人間性の問題を問う
  • からだの危機と人間性の問題を問う からだの危機と人間性の問題を問う −教育領域からの緊急提言− 久保 健(宮城教育大学) 岩崎 洋子(日本女子大学) 目黒 悟(藤沢市教育文化センター) 高橋 和子(横浜国立大学:兼企画) 伴 義孝(関西大学:企画&司会) キーワード : からだ 人間性 危機の時代 教育 生き方の原理 第三の自覚 問題の所在  2002年8月17日、「文部科学省は、確かな学力をつけさせるための総合施策をまとめた」と報道された。これは、本年度より新学習指導要領と学校週5日制の完全実施とが始まったのだが、いずれの科目も「105時間から90時間へ」と授業時間が削減されたことなどをうけて、学力低下論議が盛んに脚光を浴びていることに端を発している。だが一方で「学校体育見切り発車」(2002年4月16日・朝日新聞)という報道もあるなか、日本の子どもの「からだ*の危機」問題が叫ばれだしてから既に20数年も経つというのに、この問題は前面に浮かび上がってこない。なぜなのか。 ひらがな書きの「からだ」は「60兆個の全細胞」が心身一如で生きて働く存在を意味している。人体科学会的に言うならば、湯浅泰雄の示す東洋的身体論に根ざす「生きている身体」である。  かつて福田恆存が日本の教育論議を整理して謂う(1957)。論議がジャーナリズムにおいて噴出するのは「後進国の自覚」がそうさせるのだ、と。日本はこの「自覚」を二度もった。最初は明治の開国期に、二度目は敗戦後のアメリカ民主主義受入期にである。ここまでは誰もが指摘することだが、福田の膨らむ分析は大いに刺激となる。明治期の「自覚」は対外的統一と結びついて教育が富国強兵策の一翼を担っていたからであるのだが、敗戦後は対内的統一を促すために教育やジャーナリズムで「自覚」を強調しすぎた嫌いがあると看破する。そして、「明治以来の近代日本の歴史的な歩みを一挙に抹殺してしまったために起こった精神的混乱から(の)脱出」に向けて偏向する対内的統一が必要であったと読み解く。 …教育の世界では、そのための合言葉として「民主主義」と「平和」が採りあげられました。だがこれはおかしい。…「民主主義」も「平和」も政治の原理であります。それは生きかたの原理ではない。一歩ゆずって言っても、「民主主義」と「平和」とだけに、教育の原理を絞ってしまうわけにはいかぬはずです。(「教育・その現象」・傍点引用者)  福田のもちだす「生き方の原理」(字句変換)とは何なのか。本シンポジウムでは、現今の教育論議に「からだの危機」問題が直接的に浮かび上がってこないことに関わって、この生き方の原理問題を当然のことに追及することになる。  さて、20数年前の子どもはいまや日本社会の中堅的人材であろう。混乱を増すばかりの日本社会のすべて「からだの問題」の棚上げに起因しているのではないか。からだは「思想」である。さらにからだは「生き方の原理」のはずである。ならば「からだの危機」とは「精神」の「魂」のあるいは「いのち」の危機であろう。いまや危機の時代なのである。この問題を抜きにして人間性の問題へと迫ることはできない相談でないのか。 シンポジウムの展開 人体科学会の「会是」を要約してみた。 ◆ 東洋思想と西洋思想とを融合する新しい総合的学問を日本から発信する。 ◆ 未来の理想となる人間像を探求する。 ◆ そのためには諸分野の研究者を組織して人間性について学際的な研究交流が必要。 ◆ かかる研究では、心身に関わる東洋的技法や体育や芸術や臨床医学などの生きる身体をあつかう領域との
  • 日本 子ども 少子化 文化 政治 問題 平和 人間
  • 全体公開 2007/12/14
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  • 人間性の形成にとって教育はいかにあるべきか
  • 辞書を引いてみると、「人間性」とは、人間特有の本性、人間として生まれつきそなえている性質、人間らしさとある。これでは、あまりにも広義的・多義的であり難解である。従ってここでは、「人間」の「性質」つまり「人間であること」というのはどういうことなのであるか、という観点から。「人間」にとっての教育の必要性について考えていく。  そもそも、「人間」とは何なのか。カントは「教育学」の冒頭において「人間は教育されなければならない唯一の被造物である。」と述べているが、その理由について、次のように述べている。人間以外の動物は生きるための能力があらかじめ「本能」として与えられているのに対して人間は本能ではなく
  • 教育学概論 レポート 創価大学
  • 550 販売中 2008/04/23
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  • 小原國芳の人間観・教育観
  • まず、小原國芳の人間観について述べ、そこから教育観へと発展させていくことにする。小原國芳は人間を1個の大宇宙、又は自己一身の実在的存在であるとし、人間の貴さ、人格の崇高さ、自己の尊厳を指摘している。一人ひとりの存在が代替不可能な掛け替えのないものなのである。そんな自己の意義を真に発揮する事が、人の成長という現象だとし、また一人として自分と同じ人間のいない世の中で、いかに自己を万人に伝わるように表現できるかが、人の成長の度合いであるとしている。この、自己を発揮し表現できるように導くのが教育である。さらに小原國芳は「教育は自己開拓であり、自己深化」という考えを示すように、自分を理解すること、自己らしいものを自己らしく取り出すこと、これらを主体的に行えるよう導くのもまた教育なのである。 教育についてもう少し詳しく考察してみる。教育とは、子供たちの調和的な発達を目指すものだと述べているが、教育される者としては、自分以外の可能性に接しなければならない。それは、人間の精神によって生み出された、個々の人間を育む文化、つまり小原國芳の説く学問、道徳、芸術、宗教、身体、生活の6方面を全て知ることである。
  • レポート 教育学 個性尊重 小原國芳 人間観 教育観 現代的意義
  • 550 販売中 2007/10/18
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  • 人間関係論 愛着と社会的ネットワーク
  • 私は乳幼児期における愛着と青年期以降の社会的ネットワークとの間には重要な関係が見られると考える。 愛着とは、人間と情緒的に結びつきたいという要求をもつ状態をいう。子どもが育つには、その子にとって特に重要な中核となる人間、愛着の対象となる特別な人間が必要である。 乳児が最初に愛着をするのは、母親であることが多い。愛着を基にした母子の情緒的な絆が大切なことは確かである。しかし、その位置づけには、大きくわけて2つの考え方がある。  その一つはボウルビイの愛着理論に代表されるものである。それは子どもをとりまく人びとのうちの一人の大人、特に母親がとりわけ重要であり、母子関係のあり方がその後のあらゆる人間関係の基礎になるという考え方がベースになっている。 彼は、心身ともに発達に遅れのみられる施設病(ホスピタリズム)の子どもを研究して、その原因を母親の愛情のこもった働きかけや世話を受けられなかったための「母性愛剥奪(マターナル・デプリヴェーション)」によるとした。そして発達初期における母性愛剥奪は重大な障害を生み、しかもその影響は決定的で永続的だと考えた。  二つ目の考え方は、そのボウルビイの考え
  • 環境 子ども 社会 発達 人間 いじめ 幼児 ネットワーク 障害 人間関係
  • 550 販売中 2009/03/16
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  • 教育学概論Ⅰ(人間と教育) ②
  • 教育学概論Ⅰ(人間と教育) ②5月13日  今回の内容 「教育の原理」について考える。教育の本質的理解とは何か。「教育とは何か」という問いに答える。人間形成のパーツとそのプログラムとしての教育。教育の必要性はどのように説明されているのか。過度なロマン主義、「愛」や「神話」が説かれていないか。生物学的に考える(生理的早産説)。教育の目的とは何か。   一回目の授業から一ヶ月もの間があいてしまいましたので、まだすんなりと授業に入っていく雰囲気ができていないかもしれません。前回、話したように「教育学」とはどういうものなのか、その全体を学んでいきますが、その中で細かい部分にも興味がもてたらそこを個人的に追究していけたならいいなという目的ももちつつ、その全体のガイドとして、様々なエピソードなりを入門的にお話ししていきたいと思っています。それで「教育学って面白い」「教育には注目してみたい」と思ってもらえたらいいと考えています。  さて、「教育学」がある、学問としてありえるというのはどういう意味をもつのでしょうか。それはいうまでもなく対象としての「教育」というものがあるからなのですね。これはあたりまえのことですが、なんらかの対象があってそれへの考察が生まれ深められていくというのが学問でしょう。  とにかく皆さんは「教育」を受けてきたし、また私も同じく受けてきた。被教育者であった。そして教育学が教職だと考えると、教員の立場・視点を学ぶ・・・、つまり教室のそちら側から私のいるこちら側へと立場を移す考え方だと思われることもあるのではないでしょうか。ただし私はそれだけではないと考えています。「教師の視点」だけではなく、教師と生徒の双方の、その関係全体(そのもの)を見渡して把握する「見方」が必要だと考えます。「教育」と「教育学」を多様な視点から考える。なるべく客観的な、そして具体的に比較的考察という立場から考察していこうと思っています。  さて、前回に、「教育」が大きく変革して、そして人間に多大な影響を及ぼすであろうということをお話ししましたし、また日本と米国とを例に比較して、どうやら国によって「教育」の考え方やらが少しずつ違っているのではないかということについてもみてもらいました。書いてもらったリアクションペーパーでも、皆さんの中で国立大学附属高校や先進校出身でそういう例えば米国にも似た教育を受けてきたかたもいますし、また外国から留学で来ているかたや海外留学の経験のあるかたでそういう教育を体験している人もいるわけです。そういう人たちのなんと9割が「米国式の教育の方がいい」と答えている。少なくとも日本の教育に多少の不満を感じているのですね。すると私も加えて大多数の日本の教育を受けてきた人(のうちの多数)も「日本の教育がいい」と答えてもいいようなものですがそうではないようですね。いったいどういうことなのでしょうか。もちろん「両者のいいところをミックスして」といったごもっともな意見もあるし、また「日本の教育に誇りをもつべきだ」という意見もありましたが、この約300人の日本の教育を受けてきた皆さんは「米国式」「日本式」「ミックス」の三つがほぼ同数だったのです。なぜこんなにも不満かなにかがみられるのでしょうか。他国ではこういう調査をやるとどうなのでしょうかね。  とにかく世界中で「教育」が行なわれているし、しかし一方で十分な教育が行なわれていないとか、なんらかの事情で「教育」のための施設がつくられていないところもある。また、「まちがった教育」というのが批判材料としてとりあげら
  • 全体公開 2008/01/14
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  • 社会と人間  認知的不協和論
  • 社会と人間 「認知的不協和の理論について」 私が今回のテーマを選らんだ理由は、第一に授業を聞いてとても興味深く、そしておもしろいと感じたからである。そして第二に自分が認知的不協和を実際に経験している事があると思ったからである。なぜ自分の認知したものに対して不協和が生まれ、そしてどのように協和とし自分と折り合いをつけていくのか?その疑問について調べた内容をまとめたいと思う。   『1ドルの報酬実験』とはなにか 授業内で解説されたフェスティンガー(L.Festinger)とカールスミス(J.M.Carlsmith) の行った『1ドルの報酬実験(1959)』をもう一度振り返りたい。この実験により彼らは不協和解消のメカニズムを実証した。被験者の男子学生は実験室に1人で到着すると、非常に退屈な作業を1時間させられた。糸巻きを容器に並べては取り出すのを繰り返したり、ペグを回しては元に戻すのを繰り返したりしたのである。この作業が終了したあとで、実験者は、この実験の目的が作業に対する期待の効果を調べることであり、この被験者が期待のない条件であったと伝える。期待のある条件では、作業に取りかかる前に、作業がとても面白かったと、前の実験に参加したばかりの被験者を装ったアルバイトの学生から聞くことになっていると説明された。  実験者はさらに、実は次の期待のある条件の被験者が来ているのだが、アルバイトの学生から急に来られなくなったという連絡が入っていると行って、この被験者にその代役を依頼した。このときにアルバイト報酬として20ドル支払われると言われた被験者と、1ドル支払われると言われた被験者がいた。この被験者は次の被験者(実はサクラ)に紹介され、自分が体験した作業がいかに面白いものであったかを語った。  次の被験者が実験室に赴いたあとで、最初の本当の被験者は別室に案内された。実験に参加する前に被験者は、心理学部が実験実習授業を改善するために、実験の体験者に意見を聴取すると聞かされていたので、被験者は面接官によって、直前に体験した実験の作業に対する感想などを聞かれた。  退屈な作業をしてすぐにその作業の面白さを回答する統制条件と比べて、20ドル支払われた条件では、その作業の面白さの評定はあまり差がなかった。しかし、1ドル条件の被験者は、それら2つの条件よりも、あの退屈な作業を面白いと評定したのである(表1参照)。20ドルは、このような実験状況で嘘をついたことを正当化するには十分であった。しかし、たった1ドルでは、その嘘は十分に正当化できなかったので、被験者はあの作業を面白いと思い込むことによって、自身に生まれた不協和を解消したのである。 表1 『1ドルの報酬実験』の結果 統制条件 1ドル条件 20ドル条件 面白さの評定(*) -0.45 +1.35 -0.05 (*)-5(非常に退屈)~+5(非常におもしろい)の11段階の平均値 なぜこのような結果になったのか 一般的に考えれば、20ドル条件の人が面白さを高く評定するのではないかと考えられる。良い条件なのだから、面白いと言うのは当然のように思われるが、この結果を考察するには、認知的不協和の理論を理解する必要がある、この理論の前提には「人間には自分の行動や感情も含めて、さまざまな事物・事象に関する知識の間に、不一致がないような協和状態を求める傾向がある」とい考えが成り立っている。実験に当てはめて言えば、被験者自身の中の「この作業はつまらない」という認知と、「楽しかったと言わなければいけない」という状況に、協和状態を求めるこころ
  • 認知的不協和論 1ドルの報酬実験 レポート 心理学
  • 550 販売中 2008/05/19
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  • 水曜1限人間性レポー1
  • 水曜1限 人間性レポート「生命と身体」   『スポーツメンタルトレーニング』について 私は大学で男子ラクロス部のマネージャーをやらせてもらっている。多くのプレイヤーと接していく中で試合・練習の際にいかにメンタル面でのトレーニングが大事かということを実際に目で見て学んできた。もともと興味を持っていたことに加え、ちょうど授業で似たようなテーマを扱っていたのでこの機会にスポーツメンタルトレーニングについて調べてみた。 スポーツ心理学会編集の「スポーツメンタルトレーニング教本」(大修館書店、2002年)には、以下のようにある。(「 」内抜粋) スポーツメンタルトレーニングとは「スポーツ選手や指導者が競技力向上のために必要な心理的スキルを獲得し、実際に活用できるようになることを目的とする、心理学やスポーツ心理学の理論と技法に基づく計画的で教育的な活動」 であり、また、『心理的スキルの獲得・競技生活の問題点の克服・競技哲学の育成などを通した、「試合での実力発揮・競技力向上を目的とする全人的成長へ心理的な取り組み」 である』ということになる。 このふたつに共通している点は、『競技力の向上のために、「心理的スキル」や試合場面で使える「テクニック」を手に入れて、どのような場面でも自分で自分をしっかりとコントロールできるようになる』ということだ。 メンタルトレーニングとは何をするのか この質問の答えはわりに明瞭だ。主に行うのは、競技力向上のための「心理的スキル(Psychological Skill)」の指導だ。これは、スポーツメンタルトレーニングでは競技をしている中での悩みごとの相談というよりも、心理的なスキルを身に付けてもらうことを目的としているということである。だからと言って悩みは一切聞かない、ということではない。トレーナーと選手との間に信頼関係が築かれたときには聞かせてもらうこともあるが、トレーナー側から積極的に悩みを聞いたりはしないということである。 スポーツメンタルトレーニングのプログラム それではスポーツメンタルトレーニングで指導する心理的スキルと、その流れを以下に大まかに説明する。 (1) 目標設定 多くのプレイヤーはすでに競技に対して何らかの目標を持っているだろうが、その目標を実際に言葉にすることができるだろうか?またいろいろな目標が漠然としていて、達成にかかる時間や達成するための方法等が明確になっていないかもしれない。 「目標の設定」は自分の目指す競技レベルや具体的な成績についての目標を明確にして、さらにそれらを一つ一つ達成していけるように順序立てていくことを目的としている。そして目標の実現に向けてやるべきことを明確にし、自覚することが最終的な目標である。 (2) ピークパフォーマンス分析 フィジカルなトレーニングと同様、メンタルトレーニングでも自分の今の力量を知らなければ効果的に行うことはできない。つまり、自分の心理的な能力がどれほどのものであるのか、もしくは自分が今どのような心理的状態にあるのか、を把握していかなければならないということだ。試合のときの状態を知り、書き込み用紙や質問紙を使って振り返り、イメージトレーニングやイメージリハーサルに活用していく。 (3) リラクセーショントレーニング 競技としてスポーツを行っている以上、過度の緊張状態や競技に対する不安を感じることがあると思われる。 リラクセーショントレーニングは競技直前に起こる過緊張や競技不安を軽減するために、緊張感や不安感に対する感じやすさを低減するためのトレーニングであり、技術
  • スポーツ メンタルトレーニング トレーニング メンタル
  • 550 販売中 2008/06/21
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