連関資料 :: 哲学

資料:286件

  • 哲学レポート
  • デカルトのいう、「われ思う故にわれ在り」どのようなものなのか、この言明の意味・意義について考えていく。 「われ思う、故にわれ在り」(私は考える。だから、私は存在する)。これはフランスの哲学者であるルネ・デカルトの有名な言葉だ。  デカルトは、感覚や経験による知識が多くの誤りを含むものとの考えから、真なる知識を求めて、すべてを疑うことから出発した。  まず始めに疑ってみたのは、自分の外部に対する感覚的知識であった。つまり、自分が見たり聞いたりしていることは本当かどうかということであった。 遠くから見ると丸かったものが近くで見ると星型であったりすることがあるように、人間が見たり聞いたりという感覚には錯覚がつきものであり、確実な知識とは言えないのだ。このことから、感覚的知識は疑わしいといえる。  更にデカルトは、自分自身の身体感覚でさえ疑ったのだ。なぜなら、私は今レポートを書いている事を確かに感じているのだが、実はそのような夢を見ているだけかもしれないというのだ。  確かによく考えてみると、私自身も夢を見ているとき、現実との区別がつかないときがある。よって夢と現実の区別はそれほど明確ではない
  • 福祉 レポート 哲学 デカルト 知識 考察 意義 方法 原理
  • 全体公開 2010/03/01
  • 閲覧(27,324)
  • 哲学の現在
  • 「家族という名の孤独」は、現在東京都精神医学総合研究所で働いている斎藤学氏の二十余年間の経験をもとに書かれた本である。この本は全部で九章に分かれている。 第一章では19歳の女性を例にあげ、配偶者選択の不思議さについて書いてある。どのようなことが不思議かというと、人はどんなに過酷なものであっても同じ人間関係を繰り返すというものである。 第二章では自分が必要とされることを必要とする「共依存」について書かれている。 第三章では被虐待女性の多くは虐待する夫やパートナーよりも学歴も社会的能力も高く、男のほうがコンプレックスを抱いていることや、男性が傷つける対象は最も愛している人や癒しを期待する人だということなどが書かれている。  第四章では子供は知らず知らずのうちに両親のカウンセラーを引き受けていることや、不幸が世代を超えて伝達することが4世代に渡って不幸が続く家庭を例にあげて書かれている。  第五章では母と娘の関係は母と息子の関係以上に危険なものだと指摘している。また人の声の質が、人を好いたり嫌ったりする要素として重要であると書かれている。  第六章では幼児虐待について書かれている。  第七章では登校拒否を自己主張と捉えて、悪いことではないと述べている。そして登校を拒否できる能力は大切で、出来る人は「偉い」「勇気がある」と言っている。また学校や教師の問題を取り上げている。
  • レポート 哲学 幼児虐待 共依存 登校拒否
  • 550 販売中 2005/07/13
  • 閲覧(1,431)
  • 哲学概論
  • 佛教大学通信教育課程での【哲学概論】合格レポートです。 設題 「心身問題、その一答案」を「音がする」「心の中」 の議論を用いながら、まとめよ。できる限り、大森 の論旨を忠実に再現してみること。その上で、十分 な長さで、自分の考え、意見を、できるだけ具体的 な例を挙げながら、述べよ。 参考文献  流れとよどみ ー哲学断章ー 大森荘蔵 著       産業図書株式会社 リポート作成の助けになればと思います。 丸写しは厳禁となります。 本リポートの使用に係る責任は一切取ることができません。自己責任でお願い致します。 誤変換などによる誤字・脱字がある場合がございます。ご容赦ください。
  • 佛教大学 哲学概論 大森荘蔵
  • 550 販売中 2024/07/31
  • 閲覧(391)
  • 教育哲学とは?
  • 教育哲学とは? 「教育を哲学する?」――難しそう、理屈ばかりこねていて、現場に役立たない、といった評判が聞こえてきます。しかし、哲学とは決して難解な言葉を用いて議論をすることではありません。「哲学する」ということは、私たちが毎日の生活の中で直面する問題を筋道立てて考えること、私たちがあたりまえと思っていることをいったん立ち止まって考え直すこと、先入観や思いこみにできるだけとらわれることなく合理的・論理的に考えることです。  現在、「教育」には課題満載です。「いじめ」や「不登校」、家庭での親子関係、「教室崩壊」、少年非行、校内暴力、学力低下、道徳教育や総合学習、教育基本法の見直しの問題等々、挙げ
  • 問題 言葉 自分
  • 全体公開 2007/12/14
  • 閲覧(3,026)
  • カントの哲学
  • カントの哲学を、それに至る歴史とともに要約せよ。 イマヌエル・カント(Immanuel Kant)の哲学は批判哲学と呼ばれ、認識についての純粋理性批判、道徳・倫理の実践理性批判、美学の判断力批判からなる。認識・存在はイマヌエル・カントに至るまで全ての哲学者が述べ、合理論か経験論かという議論に二分していたが、イマヌエル・カントの合理論は独断論へ、経験論は懐疑論へと陥る危険性を学び、理性を批判的に考察し理性の可能性と限界を確定し二つの論理を統合した。
  • 哲学 カントの哲学
  • 550 販売中 2016/05/09
  • 閲覧(5,039)
  • 哲学と人生
  • 哲学と人生 私は今回、日ごろの授業で出てくる哲学者に興味を持ち、偉大な哲学者が残していった言葉を集めた哲人訓という本を読んでみた。そこから、哲学者たちの言葉に秘められた思いを自分なりに考察していき、考えを述べていきたい。 全体的に見ると、自分の心に一番残るのは、一日という限られた時間をどう使うか、などの生き方に関することばだった。 いくつか紹介すると「一番忙しい人間は一番たくさんの時間を持つ」「人は考えることによってではなく、行うことによって成長する」「天才は1%の才能と99%の努力である」どれも有名なものだが、このほかのものも言っていることは時間の大切さ、行動すること、努力することを善しとす
  • レポート 哲学 ソクラテス 言葉
  • 550 販売中 2007/07/16
  • 閲覧(1,695)
  • 国際政治学 哲学 国際政治の哲学について
  • 国際政治の哲学について考える。  まず、哲学とは、「世界・人生などの根本原理を追求する学問。古代ギリシアでは学問一般として自然を含む多くの対象を包括していたが、のち諸学が分化・独立することによって、その対象領域が限定されていった。しかし、知識の体系としての諸学の根底をなすという性格は常に失われない。認識論・論理学・存在論・倫理学・美学などの領域を含む。 各人の経験に基づく人生観や世界観。また、物事を統一的に把握する理念。」という言葉の意味から、私は国際政治の哲学について、国際政治学とは何かという課題をひも解くことによって論じていきたいと考える。  国際政治学とは何か。  国際政治学は、国際関係の変化のうち、政治的な側面の研究である。ただ今日においては政治と経済は連動しており、その境界線を明確にすることは困難な場合が多い。したがって国際政治、国際経済、国際法は渾然一体をなしており、同じ研究対象を別なアプローチで切っている場合も往々にしてあり、しかも観点の違いによって結論も違う場合もありうる。  テキストによると、「国際政治とは一つの国家・国民と別の国家・国民の間になりたつ政治関係のこと
  • 歴史 アメリカ 政治 経済 国際 戦争 社会 哲学 国際政治
  • 550 販売中 2009/03/16
  • 閲覧(1,840)
  • 哲学概論1
  • テキストを読み進める内に生ずる自分なりの疑問批判を明確に述べよ   カントは哲学において『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』の三書を著し、人間と道徳を尊重した。道徳の持ちうる道徳性より感性的な要素を完全排除することによって定言命法である「(単に)~せよ」という道徳が得られると説いたのである。例えば、損得感情を持って道徳感情を選択することは現象人のすることであり、仮言命法であるということになってしまう。そして、これが仮言命法である以上、道徳が得られることはないわけであって、カントはこれをしてはならないと説いたのである。 また、義務論倫理から言えば「雲の上の」貫徹主義では感性的な要素というものであり、そういったものを持ち合わせた倫理観というもの自体が理性的なものではないと説いたのである。例えば善であるとか目的であるとか言われるものは排除すべきであるし、逆にこうした心の選択的理性を持たないことによって純粋な理性が達成されると説き、普遍性の倫理という志向を確立させている。 これは、「正」という道徳が「善」というものからの独立を意味しており、哲学や倫理学に言われるところに影響を大きく与
  • 倫理 子ども 心理 道徳 哲学 人間 言葉 カント 旅行
  • 880 販売中 2009/05/06
  • 閲覧(1,931)
  • 哲学と不条理な人生
  • この論文では、哲学と不条理な人生の関係について考察していこうと思う。最近は何かと「哲学」という言葉には、無駄に重苦しいというか近寄りがたいイメージが付着して、哲学とはなんであるかということさえ考える人が少なくなってしまったような気もする。そこで、ここはまず原点に戻りアリストテレスの著から哲学についての記述を以下に引用する。「一般に、高次の精神は低次の精神なしには存し得ず、高次の生は低次の生の凡てを含んでその上に発展する。かくの如く段階的発展的に見られた生の存在論もしくは精神の現象学に於いて、その最高の段階を現すものは学、特に哲学である。・・(略)・・手仕事をする大工よりも設計をする棟梁がより智者であると云われている。しからば最も勝れた意味に於いて智者と考えられるのは如何なるものであるか。物を個別的に知っているというのではなくて凡てを知っている者が智者である。・・(略)・・智者の有すべき智慧はこのようにして普遍的なもの、究極的なものに関する知識でなければならぬ。この知識はあらゆる他の知識の上に位し、他の目的のためでなくそれ自身のために求められる。眞に智慧の名に値するのは第一原理と第一原因に就いての知識である。かような「智慧」は最高の学たる哲学に属している」( 『アリストテレス形而上学』三木清岩波書店全集9) かつて、純粋思弁を繰り返し人智の最高レベルに到達する哲学は、あらゆる学問の王であった。アリストテレスも「学」と「技術」を区別し、「学」を、「技術」を司る王座に地位させている。また現代直前までの例えば2000年という歴史的時間においては、それが確かに強烈な権威を保っていて、人類社会に圧倒的なる実力を有していた。秦の始皇帝の焚書坑儒をはじめとして日本の昭和時代の前半にまで残っていた治安維持法などは、純粋哲学思想(形而上学)がいかに実力を有し、為政者を煩わせ苦しめたかの例証であろう。  2002年7月6日朝、伊藤琉介ちゃん(2歳)という一人の赤ちゃんが急性心不全で亡くなった。琉介ちゃんは心臓移植手術を受けるため7月15日に渡米する予定だった。生後7ヶ月で心臓の収縮機能が低下する難病の拡張型心筋症を診断されていた。
  • レポート 哲学 不条理 人生
  • 550 販売中 2005/07/30
  • 閲覧(2,009)
新しくなった
ハッピーキャンパスの特徴
写真のアップロード
一括アップロード
管理ツールで資料管理
資料の情報を統計で確認
資料を更新する
更新前の資料とは?
履歴を確認とは?