連関資料 :: 教育について

資料:11,571件

  • 教育権・学習権をめぐる権利・義務関係について
  • ①教育権・学習権をめぐる権利・義務関係について。  すべての国民は、等しく、その能力に応ずる教育を受ける機会を与えなければならないものであって、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位または門地によって、教育上差別されないのである。そして、その保護する子女に、九年の普通教育を受けさせる義務を負う。義務教育は、これを無償とする。  国及び地方公共団体は、能力があるにもかかわらず、経済的理由によって修学困難な者に対して、奨学の方法を講じなければならない。そして、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。国又は地方公共団体の設置する学校における義務教育については、授業料は、これを徴収しない。家庭教育及び勤労の場所その他社会において行われる教育は、国及び地方公共団体によって奨励されなければならない。教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである。  子どもが、幸福な生活を送り、かつ、自己と社会の福利のためにこの宣言に揚げる権利と自由を享有することができるようにするため、この子どもの権利宣言を公布し、また、両親、個人としての男女、民間団体、地方行政機関及び政府に対し、これらの権利を認識し、次の原則に従って漸進的に執られる立法その他の措置によってこれらの権利を守るよう努力することを要請する。子どもは、特別な保護を受け、また、健全、かつ、正常な方法及び自由と尊厳の状態の下で身体的、知能的、道徳的、精神的及び社会的に成長することができるための機会及び便益を、法律その他の手段によって与えられなければならない。この目的のために法律を制定するに当たっては、子どもの最善の利益について、最高の考慮が払われなければならない。子どもは、教育を受ける権利を有する。その教育は、少なくとも初等の段階においては、無償、かつ、義務的でなければならない。子どもは、その一般的な教養を高め、機会均等の原則に基づいて、その能力、判断力並びに道徳的及び社会的責任感を発達させ、社会の有用な一員となりうるような教育を与えられなければならない。  子どもの教育及び指導について責任を有する教師は、子どもの最善の利益をその指導の原則としなければならない。その責任は、まず第一に子どもの両親にある。  子どもは、遊戯及びレクリエーションのための充分な機会を与えられる権利を有する。その遊戯及びレクリエーションは、教育と同じような目的に向けられなければならない。社会及び公共の機関は、この権利の享有を促進するために努力しなければならない。 ②児童のいじめや暴力についての自分の考え。  僕は、教育学概論の講義の中で、いじめや暴力のことに関心を持ったので、これについて自分の考えを述べたいと思います。  まず、なぜいじめという事態が起こるのかというと、それは、いじめられる側が客観的に見て弱そうなオーラを出しているからだと思います。そのために、家庭などでストレスをためた人がその人を標的にしていじめるからだと思います。 いじめられる人が消えない限り、いじめる人は消えないと自分は思います。自分が弱いんだというオーラみたいなものを出さずに、むしろ自分は強いんだぞというオーラを出していけばいじめられないと思うし、いじめる側もいじめたいという気持ちにならないんじゃないかなと自分は思います。だけど、逆にいじめる側も何か理由があっていじめているのだと思います。たとえば、家庭での問題などでストレスが溜まり、それを、誰かに八つ当たりしたいという気
  • 児童 教育 学習 義務 社会
  • 550 販売中 2007/01/15
  • 閲覧(3,606)
  • 学校における道徳教育の道徳は誰がどのように決めるべきか?
  • 学校における道徳教育の道徳は誰がどのように決めるべきか?  今現在、学校が家庭や国家から道徳教育の時間にいったい何を学習することを望まれているか、そのことについて少し触れてみたいと思う。歴史的なことをいうと授業でも習ったとおり、終身や社会科の要素をたどるものがあるのかもしれない。しかし、私も10年ほど前、道徳教育を受けてきた身として、いったい何を目的として授業が進められていたのかを思い返すと、けっして終身や社会科のように、国家の臣民育成としての授業ではなかったように思う。授業の内容は、いじめについて書いた本を読んだり、部落差別、在日朝鮮人についてなど、子供ながら道徳の時間はすごく暗い物語ばかり読まされるのであまり楽しみではなかったのを覚えている。  道徳教育を設けるにあたっての学習目標はどこらへんに置かれているのであろうか。現在は、幼稚園から高校まで一貫しての道徳教育を設けている。その個々の目標として、幼稚園では道徳性の芽生えを育てること(人間環境、就中、教師と幼児との人間的関係を両者が創造していく)、小学校は他律から自律、児童の道徳性の成長発展を促進する、主に低学年においてはしつけ(基本的生活習慣を身に付ける)、高学年においては、自分で判断し、決断したことに責任を持つ、中学校は人間としての生き方について自覚を深める(“人間の”ではなく“人間としての”)、高校は道徳として特別な時間を設けてはいないが人間としての生き方に関する教育を通して道徳教育が行われる(ホームルームや公民科)。つまり道徳教育とは心の教育であり、教育とは人格の完成を目標としているといえる。さて、国の方針としてこのような目標が掲げられていたが、そのことに対しての論議がないわけでもない。ちまたでの道徳教育観を聞くと各人各様の理論が散乱していることがわかる。たとえば道徳は生活そのものだから道徳などというものは抽象の産物に過ぎないという人があるかと思うと、道徳の現れる姿は、時代や社会によって異なるが道徳そのものは単純で、かつ普遍的だと主張する人もある。また、子供は善悪の判断をよく知っているので、ただ実行が伴わなかったり、ほかの社会的要因がこれを阻止したりするだけだと論じている人もいる。ところが、これとはまったく反対に学校でも善悪の判断を教えなければならない。教えることによって、道徳は育っていくものだとの意見もかなり多い。さらに、評論家の間では、道徳を行うためには、理想的人間像を確立することが先決だとの主張もある。このように、人によって、立場によって、道徳教育観は大変異なって出てくる。しかし道徳教育に携わる学校や家庭では、多様な価値観を論じて楽しんでいるわけにはいかない。この教育観の対立を克服して、子供によりよい生き方を指導するよう努めなければならない。  そこで、この問題を次のように整理し、道徳観の確立を図っていったらどうかと考える。世間的な道徳観を大きくまとめると、心情的なものを基準にして道徳教育を論ずる人と、責任的なものを基盤に道徳教育を主張する人があるということだ。たとえば責任の立場は、行為の道徳結果がいかなるものであるかということによってその行為の道徳的価値を評価しようとするのに対して、心情の立場は行為を道徳的に評価する場合にもっぱらその動機の純粋性を評価の対象にしようとする。そこで、道徳教育を考えるとき、両者の対立を絶対的な対立としてではなく、両者の立場が相補って初めて真の人格が形成されると考えなければならない。  このことは、人間の生き方が、行為の動機において純粋であるととも
  • レポート 教育学 同志社大学 教職課程 道徳教育
  • 550 販売中 2007/05/07
  • 閲覧(2,126)
  • 小学校の教育相談はどのような点に注意すべきか
  • 本リポートでは、「不登校」をとりあげ、教育相談を行う場合に注意すべき点について具体的に考えてみる。 教育相談は大きく三つに分けられる。 ?開発的教育相談 進路指導を中心に勉強の遅れている子どもに対して個別指導を行ったり、勉強方法のコツを教えたりする学業相談もここに含まれる。 ?治療的教育相談(適応相談) カウンセリングを中心に様々な情緒的な問題を抱えた子どもに対して、問題の所在を明らかにし、治療的に関わることによって、問題解決と日常生活及び社会生活への適応、さらには人格的成長を目指す。 ?予防的教育相談 いじめや不登校など学校における様々な問題を予防するために行われる教育相談である。
  • レポート 教育学 教育指導 教育 小学校
  • 550 販売中 2006/10/20
  • 閲覧(2,355)
新しくなった
ハッピーキャンパスの特徴
写真のアップロード
一括アップロード
管理ツールで資料管理
資料の情報を統計で確認
資料を更新する
更新前の資料とは?
履歴を確認とは?