連関資料 :: 算数科教育法

資料:243件

  • 算数教育
  • 「算数科教育の目標と評価について、双方の関係を含めて記述し、その後、自分の視点で考察せよ(4枚程度)。数と計算、量と測定、図形、数量関係、集合・論理の教育の内から一つを取り上げて、各学年での指導内容と構成と、指導ポイントについて記述せよ。(4枚程度)」 算数教育は、現代社会の変化や児童の発達の特徴に応じて、常に見直しが図られ改善されなくてはならない。       現代の児童達は情報化・国際化などで国を超えた様々な人々との協力のもと「生きる力」が必要になってくる。そのため、
  • 小学校 コミュニケーション 教師 児童 発達 教育学 学校 生きる力 指導 評価
  • 550 販売中 2010/11/30
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  • 算数教育
  • 『算数科教育の歴史(黒表紙教科書、緑表紙教科書、水色表紙教科書、単元学習、現代化、ゆとり)について述べ、それらの教育内容を自分の視点で考察せよ(4枚程度)。上記を踏まえ、2002年度完全実施の学習指導要領(算数科)の特徴について述べ、その教育内容を自分の視点で考察せよ(4枚程度)。』  江戸時代の学校は、「武士のための学校」と「庶民のための学校」があり、前者は幕府直轄の官学と諸侯設立の藩校、後者は私塾、寺子屋があった。官学では数学に関する内容はほとんど無かったが、藩校では当初こそ違ったものの、徐々に算術を含む実学指向が強まっていった。また、寺子屋では親の職業に合わせて、学習内容が決められており、読み、書きについで算数(算用)が重視され、算盤を用いた珠算を中心に実学指向の算数が行われていた。  明治時代に入ると学制が制定され、国家による学校教育が始まった。明治時代初期の代表的な教科書として、文部省編纂の「小学算術書」が発行された。これは、数と計算に終始しているが、珠算を使用せず、筆算を基本とする洋算が中心となり、江戸時代の算数教育とは大きく方向変換している。幾何に関する内容が扱われた教科書も発行され、自由な雰囲気を持っていたが、徐々に規制の方向へと向かうようになった。後に、幾何の教科書は姿を消していった。この時代の教科書は欧米の翻訳本が主流で、日本の研究者が自らの手で作り上げていこうとする気運はまだ無かった。  明治時代後期になると学制改革、大日本帝国憲法発布、教育勅語発布と、日本の教育制度は国家により整えられ、教育内容も一元化された。算数の内容としては「数え主義」を導入した藤沢利喜太郎によって数と計算問題を中心に構築された。一方、幾何教育は中等学校でのみ扱うこととなり、小学校では計量の計算問題の一部として(平行四辺形、台形といった図形が説明も無く登場し、面積の求め方のみが示されていた。)取り上げられた。このように、黒表紙教科書は子どもの認識の発達を考慮したものではなく、国家としての教育制度を確立する上で強力な推進力を担うものであった。  1910年以降、国民の生活が経済的に安定したことを受け、子どもの教育への関心が高まったり、大正自由教育運動によって教育のあり方が再度問い直されたりしたことにより、日本の研究者が欧米の数学教育改造の運動を学び取り、少しずつそれを研究・実践していく。これは、教育を大人の立場からではなく、子どもの側から創りあげようという姿勢を生み出すこととなった。これらに見合った教科書の作成が行われようとするが、藤澤利喜太郎の数え主義の影響が強く、改訂は中途半端なものとなった。一方、幾何教育は小学校においても図形を扱う内容が見られたが、日本における幾何教育を自らの手で体系化するまでには至らなかった。  昭和時代には、緑表紙教科書が発行され、子どもの認識を重視した構成となり、内容は計算問題ばかりでなく数と量と図形をバランスよく学習することがよいとされた。  第二次世界大戦中には水色表紙教科書に改訂されるが内容は緑表紙教科書とさほど大きな差は見られなかった。発展が見られたのは当時の新しい数学を導入したり、理科との結びつきを強め実測・実験を重視したりしていることであった。しかし、それらが実在から図形を抽出し、図形の性質を考察し、さらにはそれを実在へと生かしていくものではなかった。  第二次世界大戦後は急速に民主主義が浸透し、最後の国定教科書として『第六期国定教科書』が発行された。この教科書は、算数教育の「1年ずつ足踏み」が行われ、算数を生活
  • 算数科教育法 第1設題
  • 550 販売中 2008/03/06
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  • 算数教育
  • 現在の小学校の算数科の内容について学習指導要領では、「数と計算」「量と測定」「図形」「数量関係」の4つに分かれている。歴史的にも、明治時代の黒表紙教科書には、「数と計算」の内容が多く占められていた。この時代には、小学校令に学齢児童の就学が父母後見人等の義務であることが明記されたこともあり、就学率が劇的な増加をみせた。また、算数の内容は厳格な数え主義のもとで「数と計算」を中心に構築されていったが、それは国家としての教育制度を確立する上で強力な推進力を担うものであったが、当時の子どもの認識の発達を考慮したものではなかった。  大正時代になると、国民の生活が経済的に安定してきたことを受け、子どもの教育への関心が高まってくるようになった。さらに大正自由教育運動によって、教育のあり方が再度問い直されるようになった。それは教育を大人の立場からではなく、子どもの立場から創りあげていこうという姿勢を生み出すこととなった。しかし、数え主義の影響は強く、固定教科書の内容が大幅に変わるということはなかった。それでも除々に子どもの立場で教育を考える姿勢が浸透していき、1935年には緑表紙教科書が発行された。この教科書は、数学・生活そして子どもの認識という3者を踏まえて教育内容を設定しており、日本の算数教科書史において、その斬新さと内容の充実の度合いは群を抜くものであった。また黒表紙教科書と比べて編纂方針も、計算技術や数量だけでなく、図形なども取り入れ数理的な思想を養う傾向になった。さらに訓練・注入的な指導方も、子どもの認識を重視し、自発的な活動を主とする指導方へと変化していった。  1930年代の日本は、満州事変や5.15事件・2.26事件がある中、植民地の拡大とファシズムという方法で、こうした局面を打開しようとするようになっていた。学校教育もこうした社会の変動に大きく左右されることとなる。
  • レポート 教育学 黒表紙教科書 学習指導要領 ゆとり教育 大正時代 算数科の歴史
  • 550 販売中 2006/07/08
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  • 算数教育
  • 「算数科教育の歴史(黒表紙教科書、緑紙教科書、水色表紙教科書、単元学習、現代化、ゆとり)について述べ、それらの教育内容を自分の視点で考察せよ(4枚程度)。また上記を踏まえ、2002年度完全実施の学習指導要領(算数科)の特徴について述べ、その教育内容を自分の視点で考察せよ(4枚程度)。」 現代の算数科教育は今日に行き着くまでに、様々な変化を遂げてきた。先ず1905年に作られた第一期国定教科書「尋常小学算術書(黒表紙教科書)」の時代。この時代は「数え主義による数計算中心の内容の教科書」が作られた。このことにより当然の如く、教育内容は一元化され、日本独自の教育内容構築の意義を認めつつも、ドイツやイギリスを模範にした教育内容を設定していたと考えられる。例えば「幾何教育」は、小学校では計量の計算の一部として取り扱うだけであった。    また、数え主義と幾何は国家の教育制度を確立する上で推進力を担う筈のものであったが、子どもたちの発達の認識が考慮されていなかった事実もある。  1935年に第四期「国定教科書(緑表紙教科書)が発行された。この教科書は、日本の算数教科書史において「特筆すべき斬新さ」と
  • 日本 小学校 子ども 教師 学校 学習指導要領 表紙 学習 数学 問題
  • 550 販売中 2009/02/03
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