聖書の教えによれば、人間は良くも悪くもない白紙の状態から、罪を犯して悪くなったり、善行によって良くなったりするというような考えはなく、人間は生まれながらに「原罪」というものを持っていて、ここからすべての悪行と悲惨が噴き出してくる、としている。この「原罪」はあまりにも重すぎて、人間が自力でいくら善行に励んでも罪から救われることはなく、罪を少しも持たない何者かによって代価が支払われないかぎり「罪からの救い」はないと教えている。「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」(ロマ書第3章第20節)と、人間が律法によって義とされる道はないとされている。律法は人を罪の自覚を生じるだけで、人は行為の努力によって義を得ることは不可能なのである。「正しい者はいない。一人もいない」(ロマ書第3章第10節)、「善を行う者はいない。ただの一人もいない」(ロマ書第3章12節)。
そこで、人が罪から救われる代価を支払ったのが、イエス・キリストの十字架の犠牲である。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」といっている(ロマ書第3章23節,24節)。
中国文化演習Ⅰ(思想)
キリスト教における人間観
聖書の教えによれば、人間は良くも悪くもない白紙の状態から、罪を犯して悪くなったり、善行によって良くなったりするというような考えはなく、人間は生まれながらに「原罪」というものを持っていて、ここからすべての悪行と悲惨が噴き出してくる、としている。この「原罪」はあまりにも重すぎて、人間が自力でいくら善行に励んでも罪から救われることはなく、罪を少しも持たない何者かによって代価が支払われないかぎり「罪からの救い」はないと教えている。「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚...