資料:8件
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アジア太平洋戦争
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アジア・太平洋戦争とはなんだったのかという問いについて、「ブロック経済の拡大」という観点から考えてみたいと思う。ブロック経済とは世界恐慌以後、イギリス、フランス、アメリカ、日本の各列強が、自身の友好国(植民地など)を含めて世界を分割し、関税障壁によって、自ブロック内での生産の保護、増大を図ったものである。日本の円ブロックの場合、ブロックの拡大は3段階に分けられる。第一段階として、1931年の満州事変の勃発に端を発する中国東北戦争にかかわる日満ブロックの形成。さらに1930年代の中国への軍事介入による日満支ブロックへの拡大。そして、アジア・太平洋戦争の開戦の契機となる東南アジア進出による大東亜共栄圏のブロックへの拡大である。
まず、日満円ブロックの形成についてみていく。ブロックの拡大の意図は、資源の問題と市場制約の突破のための植民地圏の確保、自給経済圏の構築にある。1931年からの満州事変により中国東北部に傀儡政権である満州国を樹立した日本は、1920年代に低迷していた資本輸出を朝鮮・満州に対するものを増やし、30年代に入って回復させる。満州での産業開発は対ソ戦を想定した軍需産業の建設が主立っていた。満州鉄道は1936年までに3000キロの新線を建設、満州の路線網を完成させた。また、鞍山の製鐵、撫順の石炭の増産めざしたが、必ずしも計画通りには増産せず、以後は華北の資源を頼るブロックの拡大が必要となった。また、これらの製鉄所、炭鉱では賃金の安い中国人・朝鮮人労働者によって支えられていた。こうした現場では一日の労働時間が非常に長く、栄養不良もあって、多くの犠牲者を出す結果となった。また、戦争捕虜、囚人を労働者として雇用したことにより、生産は非能率とならざるをえず、鉄鋼価格は本国を上回るほどであった。また、本国からの価格補助金によって、円ブロックのインフレを生じさせ、経済の混乱を生む原因となった。
1930年代中葉には満州国で生産される戦略物資では足りず、華北のブロック化が必要となった。駐屯軍は1935年10月から華北の資源調査を開始し、開発有望な鉱山を確認した。また冀東政権を利用しながら、密貿易を行い華北の利権拡大と経済的撹乱をはかり、とくに日本の商社によりアヘンが大量に流入したことは注目できる。しかし、イギリスは35年の9月に中国の通貨改革を支援しており、国民党は各地方で異なる通貨の元への統一により、ドルとポンドの支援もあって、日本の華北の円ブロックへの組み込みは難航する。また、円は、金や実物経済による裏づけを持たなかったため、インフレを引き起こし、植民地の民衆を苦しめる結果となる。
日本は1940年に南進を決定し、東南アジアへの侵略が決定的となる。第二次世界大戦の勃発により、仏領インドシナ、オランダ領インドネシアはその統治が不安定となっていたが、そこへ火事場泥棒的に日本が進出しようとしたのである。日本は40年7月、松岡洋右外相が閣議決定した「基本国策要綱」により次のようなプランを出している。「八紘を一宇とする肇国の大精神に基づき皇国を核心とし日満支の強固なる結合を根幹とする大東亜の新秩序を建設する」というものだった。大東亜圏とはアジア・太平洋を指し、そのほかの世界が欧州圏、米州圏、ソ連圏に分割されるという構想であった。40年に日本はインドシナへの進出を開始し、東南アジアの資源の確保を意図する。41年12月にアジア・太平洋戦争が開戦すると、いちはやくイギリス領のマレー半島に侵攻し、シンガポールなどを占領下におさめた。しかしながら、この経済ブロ
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太平洋戦争 エレクトロニクス戦
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マリアナ沖のエレクトロニクス戦で日本が大敗した事はよく知られている。ではこのエレクトロニクス戦の勝敗を決定したものは何だったのだろうか。当時の日本は確かに科学技術的に見てアメリカより劣っていたかもしれない。しかし、ゼロ戦の存在などを考えると、原因はそれだけではないように思える。単純に言うと、戦うということをどう考えていたか、という点において、両国には違いが存在していたのではないか。
パールハーバーの戦い以来の航空攻撃戦において、まずアメリカは守りの研究を進め、F6FヘルキャットやVT信管付きの対空砲火をつくりだした。これは己を省みる姿勢から、客観的にデータを集め、反省、改善した結果である。戦争に実際にかかる費用を考え、無駄な出費を抑える、これは現代においてはもっとも自然な考え方である。防御は時に、最大の攻撃となる、ということだ。アメリカにとって、戦争はひとつの生産的活動として捉えられていたように私には思える。
一方の日本はどうであっただろうか。ゼロ戦は当時において優れた機能を有していた。日本もまったくエレクトロニクスを無視していたというわけではないだろう。ではなぜ歴史上に残るほどの大敗となってしまったのだろうか。そこには、生産的に己を省みて何かを改善しようという姿勢は見られない。優れた人材を持ちながら、その人的資材を生かすことができなかったというのも、その時点で、できる限りの成果を挙げようという考え方をしなかったからではないだろうか。<いま、ここ>をきちんと見つめ、何をすべきか、何を一番に考えるべきかを意識しなかったことが、盲目的で消耗の多い戦い方を生み出してしまったのだと私は考える。
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日本史(太平洋戦争と戦後改革)
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太平洋戦争とは、1941年12月から1945年8月までの間、アメリカ、イギリスを中心とする連合国と日本との間で戦われた戦争のことをいう。1941年12月8日午前2時、日本軍は攻撃の30分前に届くはずの最終通牒が届いていないにもかかわらず、ハワイのアメリカ軍基地真珠湾に攻撃をかけ、それを機にアメリカは太平洋・大西洋、アジア・ヨーロッパへの参戦を決める。こうして、本来のイギリスとアメリカの対立から、戦域は拡大、長期化していき、太平洋戦争は始まった。1942年6月のミッドウェー海戦ではアメリカ軍の反撃を受け、日本軍は4つの空母を失うという大敗をした。その後戦時下の国民の生活は戦争が長引くにつれて生活必需品への統制がすすめられ、食料品や日用品は劇的に減り、人々の生活を圧迫した。1944年からはアメリカ軍機による本土の無差別空襲が始まった。アメリカは国民の遷移喪失をねらい人口密集地を中心に全面的に空襲を実施した。軍事施設・軍需工場にとどまらず、住宅地、主要都市が次から次へと空襲を受けた。資材労働力が不足し、日本経済は、麻痺状態に陥り、女子学生でさえも軍事工場等に動員させた。さらに国民生活は一層貧しくなり、士気も低下し、政府も戦争終結を検討し始めた。
アメリカは日本を降伏させるため、1945年8月6日に広島、9日に長崎に原子爆弾を投下した。広島では約14万人、長崎では約7万人の死者が出たと言われている。テキストで「総理に就任していた鈴木貫太郎は、八月一四日の御前会議で、日本の戦後処理方針と日本軍隊の無条件降伏を勧告したポツダム宣言を決定し、」(注1)とあるように、日本はポツダム宣言を受け入れ戦争は終結したのである。
日本が降伏すると、アメリカはただちに太平洋陸軍司令官マッカーサー元師を日本占領のための連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に任命した。連合国最高司令官総司令部は日本を「非軍事化」及び「民主化」へ改造することを目的としていた。
マッカーサー司令官は民主化への関連として五大改革等の改革を起こした。それぞれについて述べていく。
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太平洋戦争時の人種主義とアメリカ社会
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1 日米の「敵」イメージの創出
この文献は第二次世界大戦期のアメリカと日本における双方の「敵」の見方について記してあるものである。アメリカ、日本の両側ともプロパガンダにより「劣った人種としての敵」を創出し、国家総動員体制を作っていったということが克明に記してある。
日本は有名な「鬼畜米英」の標語に表されるように、欧米列強は17世紀以来アジアの諸民族を隷属させ搾取し続けてきた極悪非道の国家であり、その国民は鬼畜であるという敵のイメージを創出した。そのイメージはニュース映画や新聞、雑誌、ラジオといったマスメディアや教育の場で国民に刷り込まされていった。その一方で日本はそのような欧米諸国や諸国民と自らを対置するようなイメージを作り上げる。日本はアジアを「鬼畜」の帝国主義者から開放する国家であり、その国家を構成する「大和民族」はアジアの指導的民族であり、世界でも最も優秀な民族であるという自民族優越主義を唱えた。「大東亜共栄圏」のキャッチフレーズに代表されるような思想がそれである。
一方でアメリカも同様に日本に対して「敵」イメージを創出した。新聞、雑誌等のメディアや政府要人の発言など様々な場面において、日本に対する敵対的プロパガンダが行われた。その内容は日本人は異常な集団主義者であり、精神倒錯者であるといった人種主義的なものに及ぶこともしばしばであった。具体的にこの文献で書かれていることから言えば、日本人を猿に喩えた風刺画や逸話、また日本人を幼児に喩えて風刺した書籍など様々な資料が残されているようだ。
これらの日米双方のプロパガンダは両国民にとって相当のインパクト、説得力のあるものとして出現した。例えば本書には日本人はプロパガンダによってアメリカ人はどんな極悪な所業も恐れない悪人だと刷り込まされたため、サイパンや沖縄など各地での集団自決を生んだと記されている。
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容赦なき戦争
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日露戦争以降太平洋戦争に至るまでのオーストラリアの対日政策について
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日露関係が悪化の一途をたどり、一触即発で戦争状態になるのではないかとの観測は、ロンドン発の外電を連日掲載していた新聞を通じて、逐一報道されていた。日露戦争は1904年2月8日に発生し、1905年5月の日本海海戦でロシアのバルチック艦隊が壊滅的被害を受け、9月5日にアメリカのポーツマスで講和条約が調印されて日本の勝利という形で幕を閉じたが、オーストラリアは戦略論と北海でおきたイギリスのトロール船が砲撃を受けたドッカー・バンク事件による反ロシア感情の裏返しから日本に熱いエールを送り、親日論が急速に台頭した。
それをあらわすものが1902年に締結された第一次日英同盟だが、これはイギリスとオーストラリアの利益が一致したものだといえる。
第一に、日英同盟は世界のバランスからみてイギリスと英帝国に利益をもたらすことである。南下するロシアをくい止める抑止効果をもつ点で、当時のバートン首相は「オーストラリア連邦にとってきわめて有益である」と全面賛成を展開した。また、同盟は「世界平和を保障する」ものであり、英帝国と日本の海軍力が「同盟によって相互に増強される」点で、オーストラリア防衛に多大な貢献をするとも述べている。
第二に、オーストラリアが東アジア貿易を促進する上で、日英同盟は有利に作用するとの判断を示している。オーストラリアは当時、新しい貿易市場として日本と中国の将来性を期待しており、同盟条約の前文が中国と朝鮮半島における経済活動の機会均等を謳っている点に注目したわけである。
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