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連関資料 :: 日本史

資料:452件

  • 【最新2019~2022年度】日本大学通信 日本概説 日本概論 課題1,2(分冊1,2) 合格レポート
  • ■日本大学通信教育部 ・科目:日本史概説、日本史概論 ・課題1:次の2問について、全て答えなさい ①1世紀から9世紀半における倭国と東アジア(特に中国王朝)との外交の経緯と特徴について説明しなさい。 <ポイント>画期となる出来事を抜き出し、その前後の変化を捉えること。「どこで変わるのか」「何が変わるのか」を意識。冊封関係を軸に捉える。 <キーワード>冊封関係、倭五王、遣隋使、遣唐使 <参考文献>『日本古代史』全6巻(岩波新書)、『日本中世史』全4巻(岩波新書)、『日本古代の歴史』全6巻(吉川弘文館)、『日本中世の歴史』全7巻(吉川弘文館) ②鎌倉時代から戦国時代にかけての武家政権と公家政権(朝廷)との関係について説明しなさい。 <ポイント>画期となる出来事を抜き出し、その前後の変化を捉えること。「どこで変わるのか」「何が変わるのか」を意識。武家と公家の関係(強調や対立・分立など)をまとめる。 <キーワード>東西王政、承久の乱、足利将軍と南朝・北朝、天皇権威 <参考文献>『日本古代史』全6巻(岩波新書)、『日本中世史』全4巻(岩波新書)、『日本古代の歴史』全6巻(吉川弘文館)、『日本中世の歴史』全7巻(吉川弘文館) ・課題2:次の2問について、全て答えなさい ①寛永文化・元禄文化・化政文化の特徴をそれぞれ説明しなさい。 <ポイント>「作者・作品」の紹介や説明で終わらせないこと。作品が生まれた時代背景や文化の影響を記述すること。 <キーワード>出版、農書・実学、上方の文化、江戸町人の文化、洋学 <参考文献>『シリーズ日本近世史③ 天下太平の時代』ほか ②大正デモクラシーをめぐる政府と民衆の動向について説明しなさい。 <ポイント>吉野作造や美濃部達吉の考え、米騒動にみられる社会不安などを背景に、政治家がどう動いたか。 <キーワード>天皇機関説、民本主義、第二次護憲運動、米騒動、治安維持法 <参考文献>『シリーズ日本近世史③ 天下太平の時代』ほか
  • 日本大学 通信教育部 日大通信 教職 地歴 地理歴史科
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  • 日本2(近世初期の対外関係について)
  • 『近世初期の対外関係について』 室町の終わりから織田政権下にかけて、海外から宣教師が来日する。十五世紀にヨーロッパではじまった「大航海時代」の波が、十六世紀半ばに極東の地日本にも押し寄せてくる。天文十二年(一五四三年)ポルトガル人が種子島に上陸し、鉄砲を伝えた。これが初めて日本に来たヨーロッパ人である。これをきっかけに南蛮貿易がはじまった。南蛮の語源はポルトガル人が南から船で渡ってきて、また身なりが当時の日本の基準からすると野暮ったいと見られたためとされている。 ここにはじめて日本とヨーロッパとの関係がうまれたのである。 当時のポルトガル・スペインの海外進出は、貿易とキリスト教の布教を結びつけて進められた。キリスト教の布教は、天文十八年(一五四九年)鹿児島に上陸したフランシスコ=ザビエルによってはじまる。 織田政権下ではキリスト教は基本的に弾圧を受けずに、信長は仏教諸派やキリスト教との間に距離をおきながら全ての宗教勢力を支配下に置こうとした。南蛮貿易も積極的に行われ、ヨーロッパの文化が日本に入ってくることとなった。 織田政権下に続いて豊臣政権下でも南蛮貿易は行われていたが、土佐国にスペイン船サン・フェリペ号が漂着した時、乗組員からヨーロッパ諸国がキリスト教の布教活動によって植民地拡大を狙っているという話が伝わり、 また一部のキリシタン大名によって、入信の強制や神社仏閣の破壊、僧侶の弾圧や日本人奴隷貿易などが行われているとし、天正十五年(一五八七年)に人身売買の禁止・キリスト教宣教師の追放・キリスト教布教の厳禁といったバテレン追放令が出された。しかし、南蛮貿易の継続や宗教に関係のない南蛮人は商人以外でも来日を認めるといった内容のため、実際の効果は薄かったといわれている。秀吉の狙いとしては、禁教令の効果よりも、日本人奴隷貿易の禁止と、キリシタン大名による南蛮貿易独占を打破することであった。 キリスト教は弾圧するが、貿易は推奨しているという点からは織田政権下と相反するものである。 それとともに、豊臣秀吉は朝鮮やルソン・ゴア・高山(台湾)などに入貢・服属を要求し、これが不成功に終わると渡海朱印制度を定めた。 また、秀吉は天下統一を果たすと明を征服しようと考え、足がかりとして朝鮮侵略を試みる。天正二十年(一五九二年)に漢城を攻め取ったとの報に、秀吉はアジア征服の大構想を打ち立てる。しかし、明の援軍と朝鮮の義軍と民衆の抵抗で戦況は逆転し、文禄二年(一五九三年)に和議が起こり日本軍は引き上げる。明の講和条件に激怒した秀吉は、慶長二年(一五九七年)に朝鮮に大軍を送り込むも苦戦が続き、慶長三年(一五九八年)に秀吉の病死を機に日本軍は朝鮮から引き上げて、朝鮮出兵は終わった。 徳川家康は秀吉の死後、関ヶ原の戦いに勝利し、江戸幕府を開いた。慶長六年(一六○一年)からは朱印状が発行され、朱印船貿易が展開した。朱印状は中国人やヨーロッパ人にも与えられたが、多くの日本商人たちが朱印船貿易によってアジア各地に進出し、根拠地として各地に日本人町をつくった。 また、ちょうど大阪の陣の頃幕府はイギリス・オランダの貿易を拡大して布教と貿易の分離を実現していった。慶長十四年(一六○七年)にはオランダと、慶長一八年(一六一一年)にはイギリスとの貿易がはじまった。 朝鮮とは慶長十四年(一六○七年)に通商条約(己酉約定)を結び、明船も慶長十六年(一六○九年)には長崎に来て、東アジア諸国・地域との交流がはじまった。 このようにポルトガル・スペイン・オランダ・イギリス・中国・琉球・朝鮮、日本、東南
  • 日本史 近世初期 対外関係 佛大
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