連関資料 :: 夏目漱石

資料:19件

  • 夏目漱石の作品
  •  夏目漱石の作品は、自伝的な要素を含んだものが多い。どの時期に書いたのか、それが分かればその時の作者の実際の心情が作品から伺うことが出来る。「自転車日記」などはその通り日記調で、一つの小説というよりまるで本当に漱石の日記であるかのように読むことが出来る。そして、唯一公に自伝的小説と著名されている「道草」は、漱石がロンドンから帰ったとき、また「吾輩は猫である」執筆当時の三十代後半に書かれたものである。  主人公の健三は数年間の洋行から帰国し、教師として働いている。と言って金銭的に豊かな暮らしというわけではなかった。日々を過ごすのに差し支えはないが、余裕があるわけでもない。そんな健三の所に姉や兄、さらに縁を切ったはずの養父島田、さらに妻の父までが金を頂こうと健三の所に話を持ち込んでくる。  実際に漱石は文部省から英国留学を命じられている。ロンドンで、クレイグ教授の個人授業を受け、二年間そこで暮らしている。その後、第一高等学校講師、東京帝国大学英文科講師の任についている。健三と違って、毎日の生活が精一杯というわけではなかっただろうが、親戚中から金の工面についてすくなからず相談を受けていたようだ。他人ならまだしも、親戚という人種からの頼みに、漱石は心底うんざりしていただろう。その人間関係の模様が、作品を通じて垣間見ることが出来る。  作中では、細君とさえ意見や価値観が一致せず、理解しあえない情景を淡々と描いている。学問を修めた健三には細君の捏ねる理屈は取るに足らないものであった。頭の良さをまったく感じさせないその相手に、また、わかってもらえないという孤独感も同時に感じている。この矛盾は、両者の間に横たわる溝となって、結局最後まで続いてゆく。そしてそのすべてが自身の創作活動に深く関わってくる。
  • レポート 日本文学 夏目漱石 自伝 自転車日記 道草 我輩は猫である
  • 550 販売中 2005/12/09
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  • 夏目漱石の「当て字」について
  •     夏目漱石の「当て字」について                       私は今回、他の授業で扱った夏目漱石の『彼岸過迄』という作品において、当て字のようなものが多いことに興味を持った。そこで、『彼岸過迄』を中心に、夏目漱石の当て字の用法の特徴について調べてみたいと思う。  そもそも、当て字とは何であるか。日本国語大辞典によると、    あて-じ(宛字・当字)〔名〕漢字本来の意味に関係なく、その音・訓だけを借りてある語の表記     に当てる漢字の用法。借字。「浅増(あさまし)」「目出度(めでたし)」「矢張(やはり)」「野 暮(やぼ)」の類。 とある。しかし、私は今回のレポートの中では、次のようなものを当て字ということにする。 一寸(ちょっと)、洋杖(ステッキ)のように、漢字自体の読みでは考えられないふりがながふってあるもの。 加留多(かるた)、盆槍(ぼんやり)のように、漢字本来の意味に関係なく、言葉の音に漢字の音・訓読みをあててあるもの。 なお、『漱石新聞小説復刻全集6 彼岸過迄』(夏目金之助著 ゆまに書房 平成十一年九月)を底本とする。 まず、『彼岸過迄』の中の、「彼岸過迄に就て」「風呂の後」「停留所」各章においての、当て字をまとめてみた。(複数回あるものは初出のみ記載する) 「彼岸過迄に就て」 身體(からだ)・機會(しほ)・原(もと)・仕舞つた(しまつた)・背負された(しょはされた)・先(まづ)・例よりも(いつもよりも)・浪漫派(ろうまんは)・標題(みだし)・一寸(ちょっと) 「風呂の後」 〈第一回〉・反間(へま)・麦酒(ビール)・何時(いつ)・勿體ない(もったいない)・序(ついで)・咽喉(のど)・煙草(たばこ)・凝として(じっとして)・積であつた(つもりであつた)・硝子(がらす)・昨夕(ゆうべ)・羞痒たい(くすぐつたい)・何う(どう)・倦怠さう(だるさう)・矢張り(やつはり)   〈第二回〉・胡座(あぐら)・間(ひま)・貴方(あなた)・石鹸(しゃぼん)・盆槍(ぼんやり)・勤勉(まめ)・潤かし(ふやかし)・此方(こっち)・何れ(どれ)・斯んな(こんな)・上靴(スリッパー)・午飯(ひる) 〈第三回〉・停車場(ステーション)・歴乎とした(れっきとした)・呉れた(くれた)・可笑しさ(おかしさ)・掩被さつて(おつかぶさつて)・膃肭臍(をっとせい)・安質莫尼(アンチモニー)・盲目(めくら)・臙脂(べに)・白粉(おしろい) 〈第四回〉・浪漫趣味(ロマンチツク)・短銃(ピストル)・剽輕(ひやうきん)・新嘉坡(シンガポール)・護謨(ゴム)・天鷲絨(びらうど)・算盤(そろばん) 〈第五回〉・新亞刺比亜物語(しんアラビアものがたり)・倫敦(ロンドン)・手帛(ハンケチ)・長閑な(のどかな) 〈第六回〉・少時(しはらく)・室(へや)・煉瓦(れんが)・左様ですね(そうですね)・何時でも(いつでも)・兎に角(とにかく)・增(まし)・期待(あて)・浪漫的(ロマンチック) 〈第七回〉・止しませう(よしませう)・熱つてくる(ほてつてくる)・噫(げつぷ)・今日(けふ)・好い加減(いいかげん)・矢つ張り(やつはり)・其方(そつち)・立ち掛た(たちかけた) 〈第八回〉勃として(むつとして)・他(ひと)・先刻(さつき)・天幕(テント)・如何に(いかに)・蝮蛇(まむし)・魚肉(さかな)・獣肉(にく)・精しい(くはしい)・序(ついで)・非酸(ひさん)・蚊帳(かや) 〈第九回〉・非道い(ひどい)・不中用(やくざ)・洋杖(ステツキ) 〈第十回〉・神さん(かみさん)・御音信(おたより
  • レポート 日本文学 夏目漱石 漱石 当て字 用法
  • 550 販売中 2008/04/10
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  • 夏目漱石と谷崎潤一郎
  •  夏目漱石は1868年2月9日に現在の新宿区に、父夏目子兵衛直克、母千枝の5男として生まれる。この後、一歳になった漱石は四谷の名主塩原家へ養子として出される。  学生時代は東京大学予備門予科に進学し、同級生の正岡子規と親交を深めるなどした。明治23年、帝国大学文科大学英文科に学び、東京高等師範学校英語教師、松山の愛媛県尋常中学教諭となった。松山はのちに『坊っちやん』の舞台となる。  明治33年、漱石は文部省派遣留学生に選ばれロンドンに赴く。「夏目狂せり」との噂が流れるなか帰朝し、一高と東大で英語英文学を講じたが留学中からの神経症に悩まされ、友人高浜虚子の勧めでいわば神経症の自己治療のために書いたのが『吾輩は猫である』である。雑誌「ホトトギス」に掲載された本著作で大いに文名があがり、明治40年には一切の教職を辞して東京朝日新聞社の小説記者となり執筆を始めた。  没したのは大正5年12月9日、享年50である。彼の死を悼む人々の数は同日に弔われた日露戦争の名将大山巌を悼む人々の数をはるかに凌いだといわれている。  このように漱石の生涯を振り返ってみると、明治時代をちょうどその一生の中に含んでいる。同時代の文学者には尾崎紅葉や幸田露伴がいるが、これらの人物が文学史上の存在である反面、漱石は単に文学史上の人物でなく、21世紀を迎えた現在でもなおその作品は生き続け、読者を得ている数少ない国民的作家の一人である。  『坊っちゃん』は明治39年に書かれた初期の作品である。勧善懲悪という主題をリズミカルでやや排他的な江戸っ子弁で語られる物語である。近代作家や近代小説理論が否定する江戸的な感受性や倫理観に堂々と反発し、勧善懲悪という伝統を近代小説に復活させた作品、といわれている。この作品の魅力は主人公・坊っちゃんの単純明快さであり、正直さであり、人としての暖かさであろう。
  • レポート 日本文学 近代日本文学 夏目漱石 谷崎潤一郎
  • 550 販売中 2006/01/05
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  • 夏目漱石のこころを読んで
  •  『こころ』は、「先生と私」「両親と私」「先生と遺書」の三部にわかれて、1つの作品を構成している。「先生と私」では「私」が一人称であり、私は「先生」と出会い、先生の思想や暗い部分に触れることによって、先生の過去などの謎を提起する部分である。先生の思想や発言にはたくさんの伏線がはられており、読者はそれを感じながら先へと読み進めることになる。  「両親と私」では、先生と対極の地位・思想にあると思える父親の、死に対峙する場面である。その中で、わずかな先生との手紙・電報のやりとりに、私は一喜一憂する。と、父親が危篤状態の時に、先生から分厚い手紙がくる。彼は父の死の瞬間がくる畏怖を抱えながら、先生の手紙をめくる。すると、最後に先生の死を示す文があり、私はあせって東京へ向かう…。この二つの章は、最後の「先生と遺書」につなぐ伏線をはりめぐらせ、また「先生と遺書」で語られる経験の結果、先生はどうなったのかを先に示している。そして、漱石が一番伝えたかったものは、前の二つの章に盛り上げられ、最終章である「先生と遺書」へ凝縮される。  「先生と遺書」では「私」という一人称が「先生」を指すことになる。『こころ』の真の主人公は先生なのである。しかし、あえて前半では「私」を一人称にすることによって、先生が客観的にどういう人物であったのか、また、どういう生活をしているのか示すことができるのだ。
  • レポート 日本文学 夏目漱石 こころ 主題
  • 550 販売中 2006/03/13
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  • 夏目漱石「こころ」の主題について
  • 私はこの作品の主題はエゴイズム(自分の利益だけ重んじる考え。自分本位の考え方。利己主義)の恐ろしさだと考えました。なぜなら、この作品ではあらゆるところでエゴイズムが取り上げられていたからです。 たとえば、「下 先生と遺書」では先生の叔父が先生の財産を奪ったといことが打ち明けられています。先生の両親は伝染病のためにほとんど同時に死亡し、それで叔父に財産の管理を任せ、先生は東京の高等学校に入学しました。ところがその間に父親の遺産のかなりの部分が叔父に横領されてしまったのです。それに先生が気づいたのは3度目に帰国したときのことです。それから先生は財産を取り戻そうと努力しましたが、結局わずかしか戻ってきませんでした。この事件によって先生は他人を信用しなくなったのですが、この叔父の行動はエゴイズムによるものである、と私は思うのです。この事件について先生は「父にあれほど信用されたり、褒められたりしていた叔父がどうして財産横領という挙に出たのか。」と疑問に思っています。そこには、事業の失敗とか、色恋沙汰があったかもしれないが、先生の父に信頼され、先生を託された叔父も「金」に眼が暗んで、思わず先生を騙すことになってしまったが、その叔父もまた、内心恥じるところがなかったとはいえないだろう、と思いま
  • レポート 日本文学 夏目漱石 こころ エゴイズム 主題
  • 550 販売中 2006/07/09
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  • 夏目漱石「暖かい夢」について
  • 夏目漱石の短編集は傾向として、二つの長編小説にはさまれる形で発表される場合が多い。「永日小品」もその例に漏れず、『三四郎』と『それから』の間に発表されている。明治四十二年(一九〇九)一月十四日から二月十四日までの一ヶ月間、東京朝日新聞と大阪朝日新聞に掲載された。「暖かい夢」は、その「永日小品」の中にある作品である。 「暖かい夢」は街の様子から始まる。きついビル風、そこで客を待つ御者、道を行く人々。道を行く人々は男も女も皆せっぱ詰まっていて、語り手である「自分」を追い越していく。どの人間も同じに見えるのか、道を行く人々の描写は皆一様である。 しかし、御者の描写はひどく詳しい。目で見たことだけではなく、耳にしたことまで描写されている。同じ街中にいる人間なのに、道を行く人と御者でなぜこれだけ「自分」の注意が違うのか。 街の人間は皆、「自分」を見ない。「自分」はここに確かに存在するのに、いてもいなくても変わらないかのように「自分」を素通りする。男も女も自分の行くべき方向を見据え急ぐだけで、わき目もふらない。無論、「自分」などその人々の目にはうつらない。少なくとも「自分」はそう感じている。言いようのない孤独と不安と戸惑いを感じている。居づらさを感じている。その居づらさを消すには、周りの人々と同様、「自分」も脇目もふらずに道を急げば良いのであろう。周りを見ずに、気にせずに、ひたすらにわが志す道だけを見据えて一直線に走れば良いのであろう。しかし「自分」にはそれができない。のそのそ歩くことしかできない。「自分」には、我が志す方などないのかもしれない。志す方がある周りの人々の中で、「自分」だけが志す方がない。だから居づらさを感じているのかもしれない。どこへ行っていいのかわからない不安が「自分」と周りの世界を隔てるのだ。 しかし、御者は違う。御者は、「自分」に目を向けてくれる。それが仕事のためだけだとしても、御者だけは「自分」を人間と認めて目を向けた。
  • レポート 日本文学 夏目漱石 永日小品 暖かい夢
  • 550 販売中 2005/11/14
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  • 三四郎(夏目漱石
  • 「三四郎」を読んで  時代を反映した小説を著してきた漱石は「三四郎」でも、明治の時代に対して警告を鳴らした。明治42年に朝日新聞に連載された「三四郎」は、新聞小説がリアルタイムに情報を発信できるという特性を生かして、社会批評を客観的かつ冷静に展開している。例えば広田先生が、日本について言う「亡びるね」という言葉。明治とともに生きてきた先生の漱石の分身としての言葉は、当時としてはかなり痛烈であり、その批評は現代にも通じる鋭さを持っている。  熊本から上京した三四郎は新鮮な驚きをもって学問の世界や異色な人物に触れながら、次第に自己に目覚めていく。主人公を平凡な学生にすることで、文明開化後の社会の動
  • レポート 日本文学 読書感想 三四郎 夏目漱石 古典
  • 550 販売中 2007/09/25
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  • ラフカディオ・ハーンと夏目漱石を知る
  •  私がこの基礎セミナーを受けた中で一番印象に残ったことは旧制第五高等学校についてである。その中でも夏目漱石とラフカディオ・ハーン(小泉八雲)について興味を持ったので、このレポートではこの2人を中心に述べる。  旧制第五高等学校は明治20年に開校された、九州で最初にできた高等学校である。旧制高等学校とは、明治27年、当時の高等中学校を改組したもので、程度の高い高等普通教育を行う男子の学校のことで、修業期間は3年。第一高等学校(通称 一高、東京)、二高(仙台)、三高(京都)、四高(金沢)、五高(熊本)、六高(岡山)、七高(鹿児島)、八高(名古屋)の官立(国立)のほかに、それぞれの土地の名を冠した官立や私立の高校もあった。  ラフカディオ・ハーンは、1850年ギリシャのレフカダ島で生まれた。19才のときに渡米し、新聞記者などをし、40歳のときに日本に来て島根の松江中学校の英語教師となった。そして、明治24年11月19日にハーンは第五高校中学校の英語の教師として赴任してきた。ハーン41歳のときである。その当時の五校の校長は講道館柔道の創始者である嘉納治五郎であった。その素直な人柄にハーンは信頼を寄せていた。また、尊敬し父親のように慕っていたのは古武士的な風貌の漢学・倫理学の教授であった秋月胤永だった。ハーンは秋月胤永のことを「近づいただけで暖かくなる暖炉のような人」と語っていたようだ。ハーンが来熊した当時の熊本は、西南戦争(明治10年)の後で、戦争の焼け跡から復興し、急速に西洋化されつつあった殺風景な町であった。ハーンは古来の家並みが消え、近代化されつつある町並みに失望した。しかし、質実剛健で、感情をあまり表に現そうとしない熊本人魂や、路地裏の地蔵祭りなどの伝統的な風俗とか、飾らない行商人との会話などに特に興味をいだいていたようだ。
  • レポート 史学 ハーン 漱石 熊本
  • 550 販売中 2005/11/30
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  • ラフカディオ・ハーンと夏目漱石を知る
  • ラフカディオ・ハーンは、1850年ギリシャのレフカダ島で生まれた。19才のときに渡米し、新聞記者などをし、40歳のときに日本に来て島根の松江中学校の英語教師となった。そして、明治24年11月19日にハーンは第五高校中学校の英語の教師として赴任してきた。
  • レポート 史学 ハーン 漱石 熊本
  • 550 販売中 2008/02/25
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