はじめに
私が発掘に初めて携わったのは上神主遺跡の関連施設とされる茂原・向原遺跡であった。それから現在に至るまで、この2つの遺跡、特に上神主遺跡の性格について自分なりに考えてきた。しかし、明治時代よりこの遺跡の検討が行われているにも関わらず、はっきりしたことは不明なままであった。昭和に入り、出土する瓦の研究が一段と進んだが、遺構自体の検討は平成になって発掘調査が行われるまでなされてこなかった。
上神主遺跡の発掘に関わることができたということから、自分なりにこの遺跡の性格について遺構を中心に検討していこうと思う。
上神主遺跡の検討について
~遺構を中心に~
はじめに
私が発掘に初めて携わったのは上神主遺跡の関連施設とされる茂原・向原遺跡であった。それから現在に至るまで、この2つの遺跡、特に上神主遺跡の性格について自分なりに考えてきた。しかし、明治時代よりこの遺跡の検討が行われているにも関わらず、はっきりしたことは不明なままであった。昭和に入り、出土する瓦の研究が一段と進んだが、遺構自体の検討は平成になって発掘調査が行われるまでなされてこなかった。
上神主遺跡の発掘に関わることができたということから、自分なりにこの遺跡の性格について遺構を中心に検討していこうと思う。
1.性格について
遺跡内において注目されるのは礎石建物跡(SB-1)の存在である。過去の発掘調査において礎石建物が検出されるのは寺院を除いて、駅家・郡衙政庁・郡衙正倉の3つのみである。そのことは礎石建物が特殊な遺跡からしか検出されていないことを示している。ここではこの3つの視点から礎石建物(SB-1)をみていく。
(1)駅家
『日本後紀』大同元(806)年5月14日条に「勅、備後、安芸、周防、長門等国駅館、本備蕃客、瓦葺粉壁」...