連関資料 :: 歌舞伎

資料:2件

  • 化政文化の歌舞伎
  • 序文  文化・文政年間以降の江戸時代は、最も歌舞伎がブームとなった時代である。「和事」「荒事」の演出様式が誕生した元禄歌舞伎から時を経て、作品の傾向も変化していく。  この時代を象徴した作者には、四代目鶴屋南北(一七五五〜一八二九)、河竹黙阿弥(一八一九〜一八九三)がいる。彼らの作品を紹介しながらこの時代の歌舞伎の特徴を述べて みることにする。 南北  黙阿弥より先に生まれた南北は、四十六歳の時に脚本家として脚光を浴びるのだが、傑作の多い彼の作品の中で、今日でも特に有名なのが『東海道四谷怪談』(一八二五)である。  塩冶浪人伊右衛門が私欲に走り、邪魔になった妻お岩を殺して死骸を川に流したが、その亡霊に悩まされて自滅する、というご存知幽霊物の話である。夏のお化け屋敷には、今でもお岩を真似た幽霊があるほど知られた話であるが、ただ幽霊を用いた話が暑い夏に涼しさを与えたから大ヒットとなっただけではなかったのである。  初演は文政八年(一八二五)、この時時代物として大御所の『忠臣蔵』の作品と『東海道四谷怪談』は話を同時進行で交互に上演され、武士の仇討ちとお岩の仇討ちを、南北は計算して対比している。『忠臣蔵』(一七四八)は『東海道四谷怪談』より七十七年も前に書かれた作品である。同じ江戸時代の作品とはいえ、書かれた時代背景はずいぶん変化しており、忠義の為の仇とお岩のそれが違うという部分を南北は印象つける為に、伊右衛門に「今自分親の敵もあんまり古風だ。よしにしやれョ」という台詞が幕府崩壊寸前ですでに武士道は古く、なんの役にも立たないという時代であると訴えているのである。場当たり主義の伊右衛門に当時の人間を諷刺し、武家出身で古風なお岩を世間が嘲笑しお岩の顔が崩れていく様を社会の現象として鋭く描いている。『忠臣蔵』のパロディという形としてより強調されている。
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  • 上方と和事の歌舞伎  「和事」と「荒事」
  •  今日では世界中でも支持されている日本の伝統芸能「歌舞伎」には、「和事」と「荒事」の種類の演出様式がある。  主に上方歌舞伎を「和事」、江戸歌舞伎を「荒事」と言うが、それぞれの特徴について比較検討しながら述べる。  その前にまず「歌舞伎」の歴史から説明してみる。発祥は江戸幕府の開かれた慶長八年(一六〇三)春、京都に出雲の「国」と名乗る巫女が現れ「かぶき踊り」と呼ばれるものを踊ったことが歌舞伎の始まりであると言われている。これが四条河原の遊女歌舞伎へと移動し江戸など全国へ広まっていくが、色っぽすぎ刺激が強いと風紀上の問題から禁止される。  その後、男の若者ばかりの若衆歌舞伎が流行するが、これも同性愛の対象になるという理由で禁止される。そして若衆のシンボルである前髪をそり落とし、成人男子中心の野郎歌舞伎が誕生する。この野郎歌舞伎が、今までの踊り中心の歌舞伎から狂言を用いたドラマ性の強い現在の歌舞伎へと変化していく。  この若衆歌舞伎と野郎歌舞伎の時代に女方芸が確立されており、これが今日の「和事」芸に通じている。  この上方の「和事」であるが、『歌舞伎事典』によると、「濡れ事を中心として展開される柔弱な男性の行動を表すもの」とある。やつし事と言われ、身分あるものが傾城と恋仲になり、勘当されて苦労するというストーリーが和事には多い。主役の男性は若くてハンサムで上品だが、やさ男が典型である。上方らしく柔らかみがあり色気を伴ない、狂言に見るような喋りの芸が「和事」芸である。  「和事」の有名作品では、夕霧シリーズでお馴染みの『廓文章』(一七一二)がある。夕霧は大坂新町の廓に実在した太夫で、人気遊女であった彼女の病没の冥福を祈って作られた浄瑠璃作品であったが、後に歌舞伎の作品となり、上方役者の祖として知られる、初代坂田藤十郎(一六四七〜一七〇九)が演じ、大ヒットとなった。
  • レポート 芸術学 歌舞伎 京都 江戸 伝統芸能 曽根崎心中
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