連関資料 :: 教育の歴史

資料:159件

  • 歴史教育について
  • 私の歴史教育のイメージは、年号や制度、人の名前や場所の名前など、過重な暗記を強いられる教育だと思います。また、教科書も検定制度があるとはいえ、基本的には著者の歴史学者が考えた「正しい」歴史を記したもので、考えさせる学習ではなく、児童や生徒が勝手に歴史を解釈しては困るので教科書通りに覚える、という学習スタイルです。児童や生徒に歴史を考えさせるということは、歴史を解釈させることです。それは、解釈という作業を通して児童や生徒自らが過去と対話し、未来を考える能力を育てようとすることが大切であり、将来の市民社会をつくる基礎的な能力を身につけることが教育であり学習であると思います。
  • 日本 歴史 中国 社会 学校 韓国 児童 学習 授業 運動
  • 550 販売中 2009/11/30
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  • 国家の歴史管理と教育
  •  国は歴史も教育も管理する。ということは、国の考える歴史が、学校を通してそのまま子どもに教育されるということになる。ノーベル文学賞を受賞し、ラッセル・アインシュタイン宣言の起草者でもあるバートランド・ラッセルはこのように言う。  彼等は外国の犯罪は教え込まれる。然し彼等自身の国家の犯罪は教えられない。彼等は彼等自身の参加した戦争はすべて、防衛のための戦争であって、外国の戦争は皆侵略のための戦争だと考えるように指導されている。期待に反して、彼等自身の国がある外国を征服するときは、それが文明や福音の光や、高い道徳の調子や、同様に崇高な他の何かを拡めるために、そのような征服をするのだと信ずるように教え込まれる。  極端な話のように聞こえるかもしれないが、ここ数年のアメリカを中心とした大国の論理はこのようなものではないだろうか。そして日本もその一員である以上、国が進める教育もこの論理に従うようになりつつある。  しかし、第二次大戦終了後数年間は、官民一体となって悲惨な戦争体験の継承が行われ、絶対に戦争をしない国になる決意があった。1950年10月、文部省大臣官房渉外ユネスコ課長、西村巌の発表した報告書にはこうある。 平和運動としての国際理解の教育研究協議会報告書(1950年 文部省) 1. 戦争は人間の心の中で始まるものであるから、平和のとりでは人間の心の中に築かれなければならない。 2. 争いが平和的に解決できない場合は文明に大きな損害を与える。 3. われわれの日常生活は、物質的にも精神的にも世界とつながっている。 4. 科学技術の発達は世界の国々の関係をますます深いものにした。 5. 科学的研究の成果は国際親善を深めることに利用されるよう努力しなければならない。
  • レポート 教育学 バートランド・ラッセル 歴史管理 道徳教育
  • 550 販売中 2006/02/15
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  • 沖縄における言語教育歴史
  • 近代化と言語教育 明治から戦前までの琉球方言と標準語、言語教育について調べました。 言葉を操作することは、それを話す人間自身を操作することにつながる。 統一国家のできあがる過程、あるいは統一国家の中に組み入れられる過程で共通する言語に関心が寄せられるのは沖縄だけに限られる特殊な現象ではない。 しかし沖縄その中でも際立って特徴的である。『普通語』『共通語』という熟語を教育的、社会的に熟させたのは沖縄県がどの国よりも早かったのである。 『なぜ早かったのか?』・・・・それは近代化を急ぐ沖縄積極的前向き思想とそういう思想を生み出した社会基盤に起因している。 1  沖縄の言語  沖縄の言語生活は重構造になっている。まず島ごとの各地の方言があり、その上に方言間の共通語である首里語がかぶさり、さらにその上にほぼ東京の言葉を指標にした共通語が重なっている。歴史の流れとともに共通語は様々に変化していくが、それは言語生活の表層にある文化語であって、基礎には沖縄諸方言の中の共通語である首里語が存在していた。独特な歴史を持つ沖縄は、他の日本の地域よりも毅然とした母国語とよそ者である共通語に隔たりの意識があるのかもしれない。 2 標準語教育の始まり 明治13年(1880年)「会話伝習所」という言語機関が発足したのがきっかけに始まる。 それ以前・・・政治、経済、文化の上で直接している薩摩語をヤマトゥグチ(大和口)間接的な江戸語をウフヤマトゥグチ(大大和口の言葉)として伝習しているがそれは主として交易に従事する那覇役人たちが職務上の必要から習得したもので一般化したものではなかった。 明治12年(1879年) 明治政府は軍隊・警察を派遣して、首里城の藩王府を接収し、琉球藩の解体と沖縄県設置を布告。廃藩置県以後一般のための言語教育が普及していく。 翌年明治13年(1880年)に小学校が設置される。
  • レポート 語学 沖縄 言語 方言 歴史 標準語教育
  • 550 販売中 2005/07/27
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  • 算数科教育歴史
  • 「算数科教育の歴史(黒表紙教科書、緑表紙教科書、水色表紙教科書、単元学習、現代化、ゆとり)について述べ、それらの教育内容を自分の視点で考察せよ。」  明治時代初期においては欧米の様々な教科書が翻訳・紹介され、多様な教科書を用いて比較的自由な算数教育が展開されていた。だが教育の国家統制が強まってきた。そのような中で編纂された国定教科書が黒表紙教科書である。内容は、厳格な数え主義のもとで、数と計算を中心に構築されていた。これらの教育内容は国家としての教育制度を確立する上で強力な推進力を担うものであったが、当時の子どもの認識を考慮したものではなかったのである。  大正時代に入り、生活の安定と共に子どもの教育への関心が高まり、教育のあり方が問い直されるようになった。子どもの認識の発達が重視されてきたのである。そして数学・生活・子どもの認識を踏まえた緑表紙教科書が昭和時代に入り発行された。目標は数的思想の育成とし、それまでの算術に理論なしという発想を否定している。そして内容はこれまでの計算問題中心のあり方を大きく転換し、数・量・図形が中心であった。しかしこの教育改造は画期的であったが、ブルジョア階級が中心となって行われたものであって、その後のファシズムへの道に歯止めをかける強力な力とはならなかったのである。
  • レポート 教育 小学校 算数科教育法
  • 550 販売中 2008/05/11
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  • 【日大リポート】教育歴史
  • 【教育の歴史】 ◆ヨーロッパにおける17、18世紀の教育の重要性を現在の教育への影響という視点から考察し、その概要を簡潔に述べなさい。 ◆ポイント ヨーロッパの17,18世紀の教育は、その教育思想や教育実践が、近代教育や現代教育の基礎を築いたといってよい。この時代に登場した代表的な教育家について彼らの教育思想やその実践について広く理解しておくことが望ましい。 ◆キーワード リアリズムの教育 啓蒙時代の教育 公教育思想 合格で、最終的にA判定でした。 ご参考までに、見てください。
  • 日本大学 通信教育部 教育の歴史リポート 合格
  • 660 販売中 2012/05/31
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  • 算数科教育歴史
  • 『算数科教育の歴史(黒表紙教科書、緑表紙教科書、水色表紙教科書、単元学習、現代化、ゆとり)について述べ、それらの教育内容を自分の視点で考察せよ(4枚程度)。上記を踏まえ、2002年度完全実施の学習指導要領(算数科)の特徴について述べ、その教育内容を自分の視点で考察せよ(4枚程度)。』  社会の変容に伴って、現在、算数教育のあり方が問われている。私たちは、そうした現在に見合った新たな算数教育を創り上げていかなくてはならい。その際、重要なことは、現在の社会状況を的確に判断することと、日本におけるこれまでの算数教育の変移を詳細に見直すことであろう。ここで、明治時代初期から現代に至る算数教育に登場した教科書の変移について考えたい。  まず明治時代初期の算数教育からさかのぼる。明治時代初期は欧米の様々な教科書が翻訳・紹介され、多様な教科書を用いて、比較的自由な算数教育が展開されていた。日本の教師や研究者らが、自らの手で創りあげていこうとする気運はそれほどなかった。  明治時代中期になり欧米諸国の後を追って富国強兵政策のもと、学制改革(1886)、大日本帝国憲法発令(1889)、教育勅語発令(1890)と、日本の教育制度は着々と国家による統制の態を整えていくことになる。1905年には、藤沢利喜太郎らによって第一期国定教科書『尋常小学算術書(黒表紙教科書)』が編纂される。藤沢はこの中で、数え主義による数計算中心の算数教育を実現することになる。これらは、国家としての教育制度を確立する上で強力な推進力を担うものであったが、当時の子どもの認識の発達を考慮したものではなかった。  大正時代になり、教育を大人の立場からではなく、子どもの側から創りあげていこうという姿勢を生み出すこととなった。そして、それに見合った教科書の作成が行われようとするが、改訂は中途半端なものであった。  昭和時代前期になり、第四期『国定教科書(緑表紙教科書)』が発行されるようになった。この教科書により、数学、生活、そして子どもの認識という3者を踏まえて内容を設定するという、非常にバランスを持った発想で系統性を構築していった。それは、これまでの数え主義を中心した教育を記してきた黒表紙教科書からの脱皮を意図したものであった。  次に、第二次世界大戦の中に第五期『国定教科書(水色表紙教科書)』が登場する。その内容とは、前回の『緑表紙教科書』の内容とそれほど大きな差は見られないが当時の新しい数学を導入したり、理科との結びつきを強め実測・実験を重視するなど、内容面においていくつかの発展が見られた。そして、戦火の中ということもあって、ファシズムの影響を少なからず受けたものでもあった。  続いて敗戦後の時期を見ていくと、1949年教科書の国定制度が廃止され検定制度が行われることとなった。その制度による教科書の中は、大きくは「課」に分かれており各課は算数科の内容項目を示している。その課の中の項目が「単元」となっていて、単元名は全てが生活場面の内容を示している。よって、この時期の教科書の内容とは、場面設定を明確にして、その中で生じてきた問題を解いていくという形で構成されており生活場面の問題を解決する「道具」として、算数を学習していた。  敗戦後という時期であり、新教育がアメリカからの影響を多分にもったものであること、日本に子どもを対象として作られたものではないが故に、教育現場で数多くの矛盾が生じてくるなどの問題もあった。そして、科学技術社会からの要請による数学教育の急速な変貌へとつながっていったのだ。  「数学教
  • レポート 教育学 算数科教育 学習指導要領 歴史
  • 550 販売中 2007/04/18
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  • 算数科教育歴史について
  • 「算数科教育の歴史(黒表紙教科書、緑表紙教科書、水色表紙教科書、単元学習、現代化、ゆとり)について述べ、それらの教育内容を自分の視点で考察せよ(4枚程度)。上記を踏まえ、2002年度完全実施の学習指導要領(算数科)の特徴について述べ、その教育内容を自分の視点で考察せよ(4枚程度)。」 1はじめに  時代の変遷と共に、変化を遂げていく教育方法の特徴やねらいを汲み取り、今現在の時代背景を考慮した上で、求められるべき算数の知識・教育方法について考察する。 2算数教育の変遷  明治38年、日本で最初の国定算術教科書は、「黒表紙教科書」と呼ばれ教育のねらいは日常計算の習熟・生活上必須な知識・思考の精密化であった。その中でも日常計算の習熟が一番の主軸であり、一方的に計算方法の例題を示し、練習問題を課すことで計算の熟練をはかる方法をとった。生活上必須な知識の題材は、租税・利息・株式・度量衝など生徒の日常生活とはかけ離れていたが、学校を卒業して役立つような職業教育的算数教育だった。思考の精密化では暗算を通して思考力を養成することが目的だった。この教科書は3回修正されたが根本的な変化は無く、鍛錬によって知識を身に付ける数学教育が行われたと言える。結局、全体が抽象的で生徒の心理に対する配慮が払われていないという批判が多かった。事実、計算編重で生活に触れた事実問題が少な過ぎたのだろう。 昭和10年に改訂された教科書は、「緑表紙教科書」と呼ばれ掲げた目標は、数理思想を開発し日常生活を数理的に正しくするとした。主な特徴を3点挙げる。①児童中心主義への配慮―多くの挿し絵が入っている。一年生の教科書は絵のみで構成された。生徒の興味・関心に訴える配慮が汲み取れる。②学習過程の転換―従来の過程は数から始まったがこの過程は、具体的生活問題から始まり数理的問題に繋げ、練習を積んだ後、さらに具体的生活問題の解決に取り組む流れが考慮された。③作業を通しての学習―数を頭の中と紙の上で扱うのではなく、体を動かして数理的体験を深める生活教学が重視された。 昭和16年、算術は算数と改められ理科とともに理数科の一科目とされた、「水色表紙教科書」が登場する。内容は、「緑色表紙教科書」と大きな差は見られないが、軍国調の強い内容になっている。特徴は、この頃から図形・幾何教育において直観力の育成の要素が現れ始めた。 昭和22年、理数科は解体され算数は再び単一教科になった。算数科の目的は日常の現象に即して数・量・形の観念を明らかにし現象を考察処理する能力と科学的な生活態度を養うことだったが、実際は生活経験中心の教育観に基づく「生活単元学習」が強調された。この教育のねらいは、社会を理解し良くし優れた文化を作り出すことだった。小学算数は生活指導が中心で社会科のような印象を受ける。この頃から学力低下などの問題が出始めた。 昭和33年、それらの批判を受けて文部省は、算数科を「生活単元学習」から「系統学習」へ移行した。その教科目標は、数学的な考え方の育成であった。 1960年代から1970年代にかけて世界的な「数学教育の現代化運動」(数学教育の内容の刷新を図る運動)が起こる。日本でも、昭和43年学習指導要領が改訂され生活を基本とした題材は「現代化」によってほぼ姿を消した。系統学習の方向はさらに強まり集合・確立の内容が取り入れられたが算数・数学の教育内容のレベルが高く難しくなり、生徒が授業についていけない等の問題が起こり批判される。昭和52年、「現代化」の反省を踏まえてゆとりと基礎基本がテーマとなる。現代数学の多くが整
  • レポート 教育学 算数科 黒表紙教科書 緑表紙教科書
  • 550 販売中 2007/09/20
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  • 教育哲学歴史
  • 私は不登校を「教育の二律背反問題」として考えました。多くの人は不登校という言葉に対してマイナスのイメージを持っていると思います。私自身も、不登校は絶対によくないから、がんばって学校に行かなくてはいけない、と考えていました。自分が高校生のとき学校に行くのがすごくいやでしたが、学校に行かなくては自分のこの先の人生はどうなってしまうのだろう、と不安になり、我慢をして学校に行きました。そして今はあの時がんばって学校に行ってよかったと思っています。しかし、「東京シューレ物語」という奥地圭子さんの本を読んで、不登校について肯定的に考えることもできるということを感じました。これから、不登校という問題に対する肯定派と否定派のそれぞれの意見を考えていきたいと思います。  まず、否定派の意見について考えていきたいと思います。不登校になるということは勉強などの能力が学校へ行っている子に比べて劣ってしまい、進学などの道が閉ざされてしまうので学校へ行かなければ行けないという考えがあります。また、不登校というのはただ怠けているだけだという考えもあります。社会不適応者として病気のように扱われてしまうこともあります。不登校の子どもを何とか登校させたいと思った親が精神科医などの専門家に相談すると、「それでもあなたは父親か!父として男としてだらしないから、息子が不登校になるのだ。殴っても蹴ってもいいから学校に行かせろ!」などと言われ、親は専門家の言うことだからと、自分を納得させて、先生の意見に従うことなどもあるそうです。
  • レポート 教育学 不登校 二律背反 登校拒否
  • 550 販売中 2006/06/21
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  • 教育方法学】教育思想の歴史
  • 教育思想の歴史から、我が国の教育が近代化するときの教育理念とポストモダンにおける教育での理念とを比較してその違いを述べよ。  まず最初に教育思想の歴史の流れに合わせて、モダニズムとポストモダニズムの教育理念を概説することとしたい。 我が国の教育が近代化を見たのは、明治5年に国民教育制度が確立した時にさかのぼる。この時の教育理念は、国民に広く知識を教授することで、立身出世意欲を呼び覚まし、社会に資する人材を育てるというものであった。つまり、学習することと、社会的な達成との間に、合理的な結合が見られたのである。  そうした理念に基づき、学校においては、いかに効率的に知識を与えるかが至上命題となり、効率性重視の教育がなされた。具体的には、読み書き算数の初歩的な技能や実用的な知識の教授がなされた。そして、時が進むにつれ、その体制は一律、中央集権的なものとなり、学校制度は巨大な国家的教育機関となった。  しかし、社会状況が変化することで、学校に求められる役割も次第に変化していった。人々の価値観は多様化し、一元的な教育目標に向かって教育を行うといったことは、人々の教育理念の対立と混乱を誘発すること
  • 教育 教授法
  • 550 販売中 2009/10/01
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  • 教育の原理(1分冊)教育歴史
  • 玉川大学の通信レポート【C判定】 全くの素人が独学で書いたものなので、簡単な内容となっております。どうぞ、参考用にご覧下さい。 ―教員コメントー  コメニウス、ペスタロッチの思想が不十分のようです。 ―内容―  教育は人が誕生した時から、様々な形態を取り行われてきたものである。また、その時代の背景や国の情勢により教育に対する意識が異なってくるものである。時と共に変化する教育制度を17世紀から20世紀までに着目し、その時代背景と重要と思われる教育思想家達の活躍を述べていく。  17世紀末葉から18世紀後半まで啓蒙思想が展開される。啓蒙とは「人間が自らにその責めを負っている自己の未成熟状態から脱却すること」・・・
  • 玉川大学 実験 アメリカ 社会 学校 文化 発達 科学 思想 ドイツ
  • 550 販売中 2016/05/02
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