今まで自分が理科の授業を受けてきて何が楽しかったかというと、「自分の知らなかった新しい発見」があることだ。実験をして、観察をして、予想もしなかった結果になったり発見があったりしたときの驚きと嬉しさは、今でも覚えているくらい貴重なものだ。その体験は今の自分にも生きている。今でも何か新しい知識を得たり、自分の知らなかった発見があったりすると素直に喜んでしまうし、ただただ毎日を過ごしている自分の、振り返りのきっかけともなる。それはやはり知らず知らずのうちに理科の授業から得たものだろう。それにも関わらず、教師が実験をしないままただ口頭で実験の流れと結果を言ってしまったり、テストのために「これはこうで、あれはああだから覚えなさい」と押し付け教育をしてしまったりということがあると、子どもたちは理科嫌いになってしまうだろう。現代の子どもたちの理科嫌いがそこからきているということも考えられる。理科嫌いに関して言えば、夏休みの自由研究もそれにあたると考える。いきなり「夏休みに自分で自由研究をしてきましょう」などと教師は簡単に言うが、いざやってみようとするとどうすればよいのかわからない。なぜなら学校では「研究の進め方」なるものはほとんど教えてはくれないからだ。学校の授業の内容はすべて流れが決まっていて、この実験はこのような順番で行う、だとかこの観察をこのような手順で進めていくだとかいうことはある程度決まっていて、子どもたちがそこに関して考える必要というのはなくなっている。だから子どもたちはそれに従ってきただけなのに、「自由研究」などといかにも「手順は教えたからあとはテーマを自分で見つけてやってきなさい」的な押し付けに答えられるはずがない。それにそもそも「研究」というのは、自分が探究したいと思ったときにはじめるものであるはずなのに、「やらなければいけないから」という理由で研究をするのはおかしいことだと思わずにはいられない。これらの点において考えても、子どもたちの新たな発見や驚きを導くためには教師の的確なサポートが必要だし、そのサポートがあってこそ、理科教育の意義が発揮されると考える。
初等教育における理科教科は、「子どもたちの生きる力を育てる」ところに意義があると考える。これは1つの前提である。これをもとにとした、自分が考えるさらに2つの意義を述べていきたい。
今まで自分が理科の授業を受けてきて何が楽しかったかというと、「自分の知らなかった新しい発見」があることだ。実験をして、観察をして、予想もしなかった結果になったり発見があったりしたときの驚きと嬉しさは、今でも覚えているくらい貴重なものだ。その体験は今の自分にも生きている。今でも何か新しい知識を得たり、自分の知らなかった発見があったりすると素直に喜んでしまうし、ただただ毎日を過ごしている自分の、振り返りのきっかけともなる。それはやはり知らず知らずのうちに理科の授業から得たものだろう。それにも関わらず、教師が実験をしないままただ口頭で実験の流れと結果を言ってしまったり、テストのために「これはこうで、あれはああだから覚えなさい」と押し付け教育をしてしまったりということがあると、子どもたちは理科嫌いになってしまうだろう。現代の子どもたちの理科嫌いがそこからきているということも考えられる。理科嫌いに関して言えば、夏休...