列強の利権獲得と勢力圏分割競争の舞台となる中で、清王朝末期の知識人たちは対外的危機意識を高め、亡国の危機を感じ、「この危機を乗り切るためには近代的な国家を作ることが必要である」という『救国救亡』の認識を持っていた。しかし、同じような危機意識を抱き、近代国民国家を目指した彼ら知識人エリート「士大夫」の中には、改革派と革命派という大きな二つの流れが存在したのである。
根本においては、改革派も革命派も、どちらも「強く豊か、かつ民主的な中国をつくる」という点を目指していた。この意味では同じものを目標としていたといえるが、厳密には、両派の定義する「中国」は全く違っていた。すなわち、改革派が満州人も含め文化や徳を持つ者が中華だと考えるのに対し、革命派は、漢民族のみが中華だと考えていた。
そして、改革派は清朝という王朝を体制変革によって清国という国家にすることで危機をのりきろうと考え、あくまで清朝の存続のもとでの改革を行おうとした。一方、改革派は、清朝を倒し民主主義の共和国である漢民族の中華民国の樹立を目指した。
同じ『救国救亡』の意識をもちつつも、改革派と革命派は『中華』の概念を異にし、また、それが故に目標とする政治構想も決定的に違っていたのである。
社会演習レポート
改革派(康有為、梁隆超ら) と革命派(孫文、黄興)の異同
1国家目標・ナショナリズム
改革派 中華=文化的秩序(満州人を含む)
満州王室の存続、立憲君主制
革命派 中華=漢民族(満州人は夷狄、種族的概念)
清朝打倒、民主主義に基づく漢民族の共和政
列強の利権獲得と勢力圏分割競争の舞台となる中で、清王朝末期の知識人たちは対外的危機意識を高め、亡国の危機を感じ、「この危機を乗り切るためには近代的な国家を作ることが必要である」という『救国救亡』の認識を持っていた。しかし、同じような危機意識を抱き、近代国民国家を目指した彼ら知識人エリート「士大夫」の中には、改革派と革命派という大きな二つの流れが存在したのである。
根本においては、改革派も革命派も、どちらも「強く豊か、かつ民主的な中国をつくる」という点を目指していた。この意味では同じものを目標としていたといえるが、厳密には、両派の定義する「中国」は全く違っていた。すなわち、改革派が満州人も含め文化や徳を持つ者が中華だと考えるのに対し、革命派は、漢民族のみが中華だと考えていた。 そして、改革派は清朝という王...