〈論文より抜粋〉
「先生」が残した「遺書」の書き方(そこにおいて言葉化されている他者とのかかわり方、他者をめぐる記憶=過去のあり方)に対しては、徹底して差異を強調する。他者に共感することが単なる同化とはならず、むしろ自分と他者の違いを鮮明にすることで、お互いをより本質的な共感へと開いていけることを、『こゝろ』というテクストは示しているのである。
⇒ここでの他者とはK(なのか?)
先生:Kへの研究的な働きかけを遺書まで継続させた。
青年:(自称)「人間らしい温かい交際」ができた人間。実際にどうだったかはさておき、研究的には決して働きかけなかったという自負を持つ。
→このような対比を行う場合、青年とKが同列視されなくてはならないはずだが、Kと青年には決定的な違いがないか。
(同一人物への恋愛感情・青年から先生へ向けられた絶対的な好意)
→また、Kと青年の共通点も確かにある。
(擬似的家族による交流・同一空間による対話・「静」との二人きりの時間)
〈論文より抜粋〉
「血」の倫理、それは親子、兄弟、親族を繋ぎ、肉親としての人と人との身体的な連続性と同一性を、半ば先験的に保証するものとして疑われることはなかった。(略)それは前近代の社会においては、人間関係をめぐる「自然」化された制度として機能していたし、とりわけ日本においては「義理」や「人情」を底辺とした人間関係をめぐる「道義」が、擬人的な親子関係をモデルとした「倫理」的網状組織として、国家から私的関係性までを包括していたといえよう。(略)しかし、明治以後の近代資本主義の論理は、先験化された「血」の倫理に基づく「信頼」関係の幻想を底辺から突き崩した。
「『こゝろ』を生成する」
小森陽一
〔キーポイント〕
「先生」との差異化 ⇒ 「人間らしい温かい」の成功(研究的に働きかけはしな かったという執拗なまでの宣言)
「新たな「血」の倫理」の獲得、旧・倫理の崩壊
「奥さん」との「」でのかかわり ⇒ 「自由な人と人との組み合わせを生きる」
〈論文より抜粋〉
「先生」が残した「遺書」の書き方(そこにおいて言葉化されている他者とのかかわり方、他者をめぐる記憶=過去のあり方)に対しては、徹底して差異を強調する。他者に共感することが単なる同化とはならず、むしろ自分と他者の違いを鮮明にすることで、お互いをより本質的な共感へと開いていけることを、『こゝろ』というテクストは示しているのである。
⇒ここでの他者とはK(なのか?)
先生:Kへの研究的な働きかけを遺書まで継続させた。
青年:(自称)「人間らしい温かい交際」ができた人間。実際にどうだったかはさておき、研究的には決して働きかけなかったという自負を持つ。
→このような対比を行う場合、青年とKが同列視されなくてはならないはずだが、Kと青年には決定的な違いがないか。
(同一人物への恋愛感情・青年...