【七支刀の意義】
三一三年頃、高句麗は晋の半島支配の拠点となっていた楽浪・帯方両郡を攻撃・滅亡させて中国の勢力を半島から駆逐する事に成功した。この時期には晋の衰退が激しく、遼東・遼西の前燕が有力となり、高句麗と激突する。
三四二年、高句麗は前燕に大敗する結果になり、前燕に臣従する事を余儀なくされる。この為、高句麗の故国原王は、楽浪郡の故地である平壌を拠点として、南方に活路を求める方針を固めた。四世紀の後半に本格化する高句麗の南下政策は、新興国の百済・新羅や伽揶諸国、さらには倭国をも巻き込んで、半島は最初の動乱を迎える。
四世紀前半に馬韓の地に建国されたばかりの百済は激しく対立し、伽揶諸国と同じく、倭国との提携を深める道を選ぶ。他方新羅は高句麗の軍事力を頼り、その傘下に入った。
倭国が半島に出兵した目的は、半島南部の伽揶諸国などを支配する事にあると考えるのが定説だった。だが流れを考えれば、高句麗の圧迫を受けた百済や伽揶の南部諸国が倭国に救援を要請したとする方が自然ではないだろうか。諸外国との交流や技術の独占が王権の強化に不可欠だった倭国は、積極的に半島南部への協力を試みたのではないだろうか。
三七一年、百済の近肖古王は太子貴須と共に高句麗の平壌城を攻め、激しく戦った。この年は、百済より七枝刀が献上されたわずか一年前である。
四世紀中頃より、百済は高句麗の軍事的な威圧を排して独立を目指すようになった。その為、海を越えた倭国の軍事力を必要とするようになったのである。奈良県天理市の石上神宮に伝わる七支刀は、この時期に百済王から倭国王に贈与された物なのである。百済の立場を考えれば、高句麗からの独立戦争を展開する最中に、倭国の軍事援助を先の戦争のみにしてしまう道はない。百済と倭国の軍事同盟の証として、この刀を贈ったのだろう。
「日本と朝鮮の古代における交流」について
【七支刀の意義】
三一三年頃、高句麗は晋の半島支配の拠点となっていた楽浪・帯方両郡を攻撃・滅亡させて中国の勢力を半島から駆逐する事に成功した。この時期には晋の衰退が激しく、遼東・遼西の前燕が有力となり、高句麗と激突する。
三四二年、高句麗は前燕に大敗する結果になり、前燕に臣従する事を余儀なくされる。この為、高句麗の故国原王は、楽浪郡の故地である平壌を拠点として、南方に活路を求める方針を固めた。四世紀の後半に本格化する高句麗の南下政策は、新興国の百済・新羅や伽揶諸国、さらには倭国をも巻き込んで、半島は最初の動乱を迎える。
四世紀前半に馬韓の地に建国されたばかりの百済は激しく対立し、伽揶諸国と同じく、倭国との提携を深める道を選ぶ。他方新羅は高句麗の軍事力を頼り、その傘下に入った。
倭国が半島に出兵した目的は、半島南部の伽揶諸国などを支配する事にあると考えるのが定説だった。だが流れを考えれば、高句麗の圧迫を受けた百済や伽揶の南部諸国が倭国に救援を要請したとする方が自然ではないだろうか。諸外国との交流や技術の独占が王権の強化に不可欠だった倭国は、...