私が本論を記述するに際して感じたのは、教育学的・啓蒙的な言説の無能さであるが、言説の生産と再生産にいかにコミットするかによって他者との落差を生み出し「位置」を消費して快楽を見出せるのならば、「自分の身体を売るのはやめなさい」といった保護者的な言説実践は有効であり、消えるものでもないだろう。社会学者は、言説を生み出すエージェンシーを自己再帰的に反省するという点で、その記述の相対性を記述内部で明らかにするが、多くの識者の言説は役割内部で沈殿している。本論で取り上げたブルセラ、援助交際について言えば、「性を売り物にしてはいけない」という言説に「良識ある大人」として親和しながらも、「女子中高生という性を買っているオトナ」にもなりうる現実を多くの人が認識するべきではないかと思う。
教育問題の社会学 期末レポート
Ⅰ、本論を記述するに際して
本講義では教育に関する問題を、社会学的に、すなわち「現実は社会的に言語によって構築される」という構築主義的な見地に立って考察してきた。本論では、90年代半ばに問題化した女子高校生の性的逸脱現象(「ブルセラ、援助交際」という言葉に代表される)を社会学的に分析した宮台真司の著書『制服少女たちの選択』を読み、その現象が問題化したプロセスやロジックを整理したうえで、そこに欠落していたと思われる論点を補足したいと考えている。現象を具体的に論じる前に、構築主義的な視座で論じることで考えられうる陥穽を指摘したいと思う。構築主義は、発話者あるいは言説を作り出す者の客観性や専門性に疑義を差し挟み、社会問題の相対化を起こした点で、逸脱や規範からの乖離を固定的に見る本質主義に効果的に対抗してきたと言えるだろう。しかし、言説実践が問題を生み出すということ、及びその言説の発信者がどういう立場にあるのかということ、それらが重要であるとしても、言説至上主義的に考察するべきではないということを指摘したい。すなわち言説の発生以前に言語...