まず、フランク王国の成立から見ていくことにする。フランク族はゲルマン民族の一部だった、ゲルマン民族大移動が行われ、フランク族はいくつかの支族に分かれ、ライン川の東岸、中、下流に定住し、四世紀頃にはライン川を越え北ガリア地方へと進出していった。ここで注目すべき点は、ほかのゲルマン諸族が原住地を離れ大移動したのに対し、フランク族は原住地を確保しつつ、移動は短距離しか行わなかったという点である。地盤をかためつつ、無駄なリスクを負わないことで、以後の発展につながっていくのである。ゲルマン人はそもそもローマ帝国で異端とされたアリウス派(325年に異端とされる)を信仰していたが、481年にフランク族を統一し「メロヴィング朝」を創始したクローヴィスが臣下約3000人とともに正統のアタナシウス派に改宗し、この改宗が功を奏し、というよりクローヴィスが陰謀と奸計を得意とした点から見ると、計画的であったのだろうが、ローマ系出身者、ローマ教会と提携し力を伸ばすことができた。以後フランク族はアラマン族・ブルグンド族・西ゴート族を次々に撃破、ライン川下流からピレネー山脈にまたがる大王国を建設した。
次にフランク王国のメロヴィング朝からカロリング朝への推移を見ていく。フランク族には分割相続の習慣があった。よってクローヴィスの死後、フランク王国は四人の子によって分割統治される。四人の中で最も長く生きたクロタール一世によって再統一されるが、クロタール一世の死後また四人の子によって分割され、クロタール一世の孫のクロタール二世によって再び統一される。メロヴィング家には好色の血が流れていたといわれており、一世も二世も十代で父親となって、早死にしたようである。
<フランク王国の盛衰とその文化> 1B030182-8 江里口 雄介
まず、フランク王国の成立から見ていくことにする。フランク族はゲルマン民族の一部だった、ゲルマン民族大移動が行われ、フランク族はいくつかの支族に分かれ、ライン川の東岸、中、下流に定住し、四世紀頃にはライン川を越え北ガリア地方へと進出していった。ここで注目すべき点は、ほかのゲルマン諸族が原住地を離れ大移動したのに対し、フランク族は原住地を確保しつつ、移動は短距離しか行わなかったという点である。地盤をかためつつ、無駄なリスクを負わないことで、以後の発展につながっていくのである。ゲルマン人はそもそもローマ帝国で異端とされたアリウス派(325年に異端とされる)を信仰していたが、481年にフランク族を統一し「メロヴィング朝」を創始したクローヴィスが臣下約3000人とともに正統のアタナシウス派に改宗し、この改宗が功を奏し、というよりクローヴィスが陰謀と奸計を得意とした点から見ると、計画的であったのだろうが、ローマ系出身者、ローマ教会と提携し力を伸ばすことができた。以後フランク...