私はまずこの授業の後半の内容から古代の中国思想における「時間」の捉え方についてとりあげる。
現代では、一回性で不可逆な流れと考えられている時間も未開人の原始的心性のもとでは可逆的、循環的、恒常的なものとして捉えられていた。この古代人の考えは農耕・狩猟によって生活を行っていて、一日・一年をサイクルとして同じ生活が繰り返されていたことによるものであろう。季節の祭礼を通して太古の神話的時間が現在によみがえり、それが永遠に繰り返されるのである。
古代中国においては、「終古」という語の含意から考察されるように、時間は可逆的、循環的なものであった。「終」とは円環的に運動する時間の流れを包括的に示すものであり、「古」とは悠久のときの流れを意味し、繰り返されるものである。また古代中国思想において重要な意味をもつ「道」は、道家によれば世界の根拠・起源であるが、「道」は無形であり、言葉で言い表すことはできず、また言葉で言い表すことができるようなものは「道」とはいえない。そして現在の人々で無為に生きることができている人は少なく、昔の人のように暮らすべき。と荘子も言っているように、古代中国人にとって重要なものは無形・無為なものであったのではないだろうか。時間を可逆的、すなわち流動的で固定化していないものと捉えていたのは、このような思想が根底にあったものと思われる。
しかし、支配者が現れ、次第に政治が行われるようになってくると、循環性のある出来事だけではなく、一回性の事件が多く起こるようになってくる。そして人々に歴史認識が生まれ、一回性の事象が記述されるようになっていくのである。
「中国思想論 期末レポート」
私はまずこの授業の後半の内容から古代の中国思想における「時間」の捉え方についてとりあげる。
現代では、一回性で不可逆な流れと考えられている時間も未開人の原始的心性のもとでは可逆的、循環的、恒常的なものとして捉えられていた。この古代人の考えは農耕・狩猟によって生活を行っていて、一日・一年をサイクルとして同じ生活が繰り返されていたことによるものであろう。季節の祭礼を通して太古の神話的時間が現在によみがえり、それが永遠に繰り返されるのである。
古代中国においては、「終古」という語の含意から考察されるように、時間は可逆的、循環的なものであった。「終」とは円環的に運動する時間の流れを包括的に示すものであり、「古」とは悠久のときの流れを意味し、繰り返されるものである。また古代中国思想において重要な意味をもつ「道」は、道家によれば世界の根拠・起源であるが、「道」は無形であり、言葉で言い表すことはできず、また言葉で言い表すことができるようなものは「道」とはいえない。そして現在の人々で無為に生きることができている人は少なく、昔の人のように暮らす...