地球社会研究というこの一連の授業を受けて私が感じた事、そして浮き出てきた疑問は、他の文化を真に理解できるのか?むしろ理解できているのか?そしてその文化がどんな文化であれ認めるべきなのか?ということである。これをテーマとして設定したい。言い換えれば、グローバリゼーションが叫ばれている中での、文化相対主義のあり方、真のグローバリゼーションとは、という話にもつながるのいではないだろうか。私達は、異文化とマイノリティーをあまりにも表面上だけでしか理解していないように思う。
現在私達は、世界が統一化していくことになんの疑問も持たない。各地で紛争を起こしている一方どこかで統一を望む心理が働いている。特に日本を代表とする中途半端な先進諸国ではその傾向が強いようだ。幼少期から英語を勉強し、アメリカ的なのびのびした教育こそが世界に通用するのだ、との過信から導入されたゆとり教育など、例をあげればきりがない。その一方少数派、または普段の生活から疎遠なものはできるだけ遠ざけて熟視しようとしていないように思う。だが、それで本当にグローバリゼーションをとげている事になるのだろうか。宮地教官の授業で、私達は途上国においての、すさまじい環境と境遇におかれている女性のビデオを見た。家計を助けるために自ら身売りを希望する者、闇医者の不清潔な中絶手術によって死にいたる者、などどれも私と同年代の女子である。また女性を奴隷扱いし、暴力をふるってもなんのとがめも無い国など、もし日本で行なわれていたら大問題になりそうなことが平気で世界中に横行しているのだ。これは一例に過ぎない。女性問題に限らず様々な問題に当てはまることであろう。ではいったい何を基準にどの国を正義と考え、グローバリゼーションを成し遂げれば良いのだろうか。それはやはり文化相対主義の姿勢をとるべきだと私は思う。
地球社会研究というこの一連の授業を受けて私が感じた事、そして浮き出てきた疑問は、他の文化を真に理解できるのか?むしろ理解できているのか?そしてその文化がどんな文化であれ認めるべきなのか?ということである。これをテーマとして設定したい。言い換えれば、グローバリゼーションが叫ばれている中での、文化相対主義のあり方、真のグローバリゼーションとは、という話にもつながるのいではないだろうか。私達は、異文化とマイノリティーをあまりにも表面上だけでしか理解していないように思う。
現在私達は、世界が統一化していくことになんの疑問も持たない。各地で紛争を起こしている一方どこかで統一を望む心理が働いている。特に日本を代表とする中途半端な先進諸国ではその傾向が強いようだ。幼少期から英語を勉強し、アメリカ的なのびのびした教育こそが世界に通用するのだ、との過信から導入されたゆとり教育など、例をあげればきりがない。その一方少数派、または普段の生活から疎遠なものはできるだけ遠ざけて熟視しようとしていないように思う。だが、それで本当にグローバリゼーションをとげている事になるのだろうか。宮地教官の授業で、私達は途上国...