英国の産業革命は、綿工業から始まった。綿工業は、紡績と織布の作業機械の発明と、ワットの改良した蒸気機関が動力として利用されたことで生産が飛躍的に増大した。このことを皮切りに、他の繊維工業、機械工業、鉄工業、石炭業という具合に、連鎖的に技術革新が広がり、紡績企業を中心に機械化が進み、イギリスの工業や経済は大きく発展した。これが「機械の時代」である。
では、機械の時代における英国のビジネスはどのような理由で繁栄したのか。結論から言えば英国に「世界の工場」となるための条件が整っており、「世界の工場」として存在していたことが最大の理由である。イギリスが世界の工場と呼ばれる由来は、産業革命に伴う綿工業の発展にある。綿工業が発展した結果、世界から原料を調達し、それを国内で加工して、世界市場へ輸出するという過程が成立したためである。このため、原料を英国に運び、商品を海外に運ぶための安定的な海上輸送網が求められることになった。これは、政府による郵便補助金に支えられていた定期航路船の開設が大きな役割を果たした。定期航路線は開設当初は高運賃であったが、船舶建造技術の発達により大型船舶の建造が可能になったことで、大量輸送が実現し運賃が低下した。
そして、貿易の発達に伴い、国内外での取引に不可欠な金融の決済システムの成立が求められるようになった。この役割は、Merchant Bankerの活動が大きく貢献した。Merchant Bankerは世界中の投資機会情報を集積し、国内に散在する資金をThe city of Londonに集積する仕組み、及び、The city of Londonに集積した資金を世界市場で利用できる仕組みを構築した。この仕組みを支えたのは、電信技術の発達である。1849年にロンドン・パリ間で海底電信ケーブルが設置されると、Reuterは1851年に海底ケーブルを利用して、ロンドン・パリ間の株式相場を伝える事業を開始した。なお、海底ケーブル施設における英国の支配力は1900年に世界で施設された19万マイルのうち72%を支配していたことからも、いかに英国の力が強かったかということが読み取れる。
また、市場面においては、英国が大量の植民地を保有していたこと、自由主義経済の浸透が市場の拡大を容易にしていたといえるだろう。
しかし、以上のような条件に恵まれていたイギリスは、やがて機械の時代の終焉を迎えることになる。それにはいくつかの理由があった。
まず、イギリス社会における「製造業者の仕事=dirty work」という認識である。また、製造業者の仕事は社会的名声獲得のための事業活動という考え方も存在していた。シェル社の設立者であるサミュエル・マルクスなどはその代表例である。
次に、「企業とは家族のものだ」という思いに固執したことから、巨大株式会社出現が停滞することになった。そして、新興工業への取り組みに対する遅れも、終焉を引き起こす一因となった。例えば、自動車工業に関しては、自動車に対する厳しい速度制限と、赤旗を持った人間が車を先導する義務を課したRed Flag Actが大きな障害となった。この法律は1896年に廃止されたが、このことから、自動車が輸送手段として考えられていなかったことが読み取れる。電力工業に関しては、地方自治体の強制買収を認める条項が含まれているElectric lighting Actが存在したことで、民間活力が減退したことが大きな原因である。化学工業に関しては、当初は綿工業の関連産業(漂白、染色)として発展し、多様な可能性を秘めた産業
英国の産業革命は、綿工業から始まった。綿工業は、紡績と織布の作業機械の発明と、ワットの改良した蒸気機関が動力として利用されたことで生産が飛躍的に増大した。このことを皮切りに、他の繊維工業、機械工業、鉄工業、石炭業という具合に、連鎖的に技術革新が広がり、紡績企業を中心に機械化が進み、イギリスの工業や経済は大きく発展した。これが「機械の時代」である。
では、機械の時代における英国のビジネスはどのような理由で繁栄したのか。結論から言えば英国に「世界の工場」となるための条件が整っており、「世界の工場」として存在していたことが最大の理由である。イギリスが世界の工場と呼ばれる由来は、産業革命に伴う綿工業の発展にある。綿工業が発展した結果、世界から原料を調達し、それを国内で加工して、世界市場へ輸出するという過程が成立したためである。このため、原料を英国に運び、商品を海外に運ぶための安定的な海上輸送網が求められることになった。これは、政府による郵便補助金に支えられていた定期航路船の開設が大きな役割を果たした。定期航路線は開設当初は高運賃であったが、船舶建造技術の発達により大型船舶の建造が可能になったこ...