学習指導要領がまだ「試案」であった頃は、経験主義の立場に立っており、「生活単元学習」がスローガンとして掲げられた。「生活単元学習」では、生活上の問題を取り上げ、その解決の過程で数学を学習させようというねらいを持っていたが、生活経験に振り回され、数理の系統や論理性が見失われてしまうのではないか、という批判がなされた。また、教科の選択の余地がありすぎたために、義務、普通教育としての中学校のあり方が問われたのだが、国民共通の教養をどう捉えるか、普通教育と職業教育の在り方をどうするかという観点に基づいて、1949年に新制中学校の教科と時間数が改正され、普通教育にも職業教育にも対応できるよう必修の時間に幅を持たせたり、選択科目を多くしたりするなど、当時の新制中学校の教科や配当時間数は二転三転していた。更に、各教科の総時間配当については、各地域及び学校の事情と生徒の必要を考慮の上、学校ごとに適宜教育計画を定め得るよう最低時間数と最高時間数を示すにとどまったため、インフラ整備がどれくらいできているかなどということにより、地域によって、数学を含め必修科目を教える時間に差ができてしまうということも指摘された。
<中学校の数学における戦後から今日までの学習指導要領の内容の変遷>
第二次世界大戦後、日本の民主化政策の一環として、GHQが「教育に関する四指令」を出し日本の教育から軍国主義、国家神道的な要素を排除しようとしたことから戦後の教育改革が始まった。そこで1947年、アメリカで広まっていた経験主義、児童中心主義の影響下で、「生活単元学習」をスローガンとして教師中心ではなく生徒の興味・関心を大切にしようとする動きが生まれた。そして戦後最初の学習指導要領、『学習指導要領算数科・数学科編(試案)』が発行され、これを改訂してつくられたのが『中学校・高等学校数学科編(試案)』である。その中で数学は必修科目の一つとされ、年間授業時間数は中学校一年生から三年生までそれぞれ140時間を超えない範囲で、生徒の希望、学校の設備などからみて適当と思われるように決めればよいとされていた。当時、学習指導要領は「全国的な基準」としての役割だけを担うものであると考えられ、それを参考にしながら各都道府県なりがその地域性を考慮に入れた独自の基準を設定できる、という仕組みになっていたのである。また、この学習指導要領は「試案」...