小・中学校の道徳の時間では、副読本を使用していたと記憶している。他の教科書とは違い、個人専用に配布されるのではなく、「みんなの共有物」として教室で保管していた。そして、15分間の教育テレビ放送の番組(さわやか3組ではなかった。)を見ていた。副読本も、テレビ番組も、ストーリーが面白いのに結末がなく、がっかりした。「この話はその後どうなったのだろう?」とすごく気になった。副読本とテレビ番組からテーマ・課題が与えられ、その後についてクラスで話し合うといった形の授業だった。子ども達から色々な意見が出るが、先生から「その通り。」や、「そうすると良い。」「本当にそれでいいのか、みんなで考えよう。」と言われると思う。私は、「答えが無いようで、きっと先生はこう答えて欲しいのだろう。」と考えてしまうようになった。私にとって、道徳は「人として普通の行い・多くの人にとって当たり前のこと」だと考えていた。道徳の時間以外にも、学校で問題が起こると、クラスや学年で考える時間が与えられた。「どう思うか?これでいいのか?」とたずねられると、「このままじゃいけないから、こうやって考える時間を与えられたのだろう。」と思った。いつもはっきりした答えは見つからなかったが、「ほとんどの人が考える、正しいことといけないことの違い」を覚えていったのだろう。
先週、私が勤務する中学校で「チャットへの書き込み」が問題となった。チャットに悪口を書かれた生徒の保護者から学校へ訴えがあり、チャットの存在が判明した。チャットを直接見ていないが、市内中学校の各ページが存在し、教師の悪口、生徒の噂などが無記名で記入されていた。携帯電話からも簡単にアクセスが出来、生徒達は気軽に参加していたようだ。
小・中学校の道徳の時間では、副読本を使用していたと記憶している。他の教科書とは違い、個人専用に配布されるのではなく、「みんなの共有物」として教室で保管していた。そして、15分間の教育テレビ放送の番組(さわやか3組ではなかった。)を見ていた。副読本も、テレビ番組も、ストーリーが面白いのに結末がなく、がっかりした。「この話はその後どうなったのだろう?」とすごく気になった。副読本とテレビ番組からテーマ・課題が与えられ、その後についてクラスで話し合うといった形の授業だった。子ども達から色々な意見が出るが、先生から「その通り。」や、「そうすると良い。」「本当にそれでいいのか、みんなで考えよう。」と言われると思う。私は、「答えが無いようで、きっと先生はこう答えて欲しいのだろう。」と考えてしまうようになった。私にとって、道徳は「人として普通の行い・多くの人にとって当たり前のこと」だと考えていた。道徳の時間以外にも、学校で問題が起こると、クラスや学年で考える時間が与えられた。「どう思うか?これでいいのか?」とたずねられると、「このままじゃいけないから、こうやって考える時間を与えられたのだろう。」と思...