<聖><遊><俗>と観光
<俗>の領域に属する労働と<遊>の領域に属する遊びは人間が生きている間に、生きていくうちに欠かせない両面である。この労働と遊びのどちらを大事にとっていくかは人によって、またその社会によって様々である。その社会が先進国であるか開発途上国であるかによってもかなり違ってくる。
日本といえば10何年前には‘仕事人間’という言葉があったように労働の面に価値を置いたが、現在の若者をみると遊びの方に力を入れているとしか考えられない。こういったどちらに重さをおくかの問題はその社会全体の雰囲気をつくっていく。
人間はどの部分に、労働と余暇、偏るかは人生の時期によって違ってくる。自分的には学校の勉強が余暇と仕事、どちらにもあてはまらない領域であると考えるが、生まれて青少年期を経て、皆が言っているまともな仕事につくまではおそらく<遊>の時間であると考える。もちろん、これは自分が経験した限りのことで全世界の人がその過程を過ごせるのではないだろう。それから20代から50代位までは仕事を優先して生きていく。その後の人生は何か。家族の荷物?社会の傍観者?
まだ、すこし忘れていてはないかと思うのは、女性の場合である。男並にバリバリ仕事をやり通した女性なら同じ課程であるといえる。しかし、女性の半分以上は家事に専念する主婦であるだろう。家事自体が余暇ではないかという人もいるかもしらないが、この<俗>でもいえない、<遊>でもいえないところはどう解析すればいいだろうか。‘生きがい’のことは大変難しいものであり、こういう女性の場合生きがいというのは何か、はかることはもっと難しいものである。
‘生きがい’のタテとヨコの構造は<俗><遊>の領域で様々な形を生み出している。労働一辺倒型、余暇一辺倒型、労働重視型、余暇重視型等等、いろんなパータンがある。その中でも無関心型、と労働と余暇の割り切り型、労働と余暇の一致型の方が今の若者の中では多いのではないだろうか。
特集講義1 2002.1.12.
<聖><遊><俗>と観光
<俗>の領域に属する労働と<遊>の領域に属する遊びは人間が生きている間に、生きていくうちに欠かせない両面である。この労働と遊びのどちらを大事にとっていくかは人によって、またその社会によって様々である。その社会が先進国であるか開発途上国であるかによってもかなり違ってくる。
日本といえば10何年前には‘仕事人間’という言葉があったように労働の面に価値を置いたが、現在の若者をみると遊びの方に力を入れているとしか考えられない。こういったどちらに重さをおくかの問題はその社会全体の雰囲気をつくっていく。
人間はどの部分に、労働と余暇、偏るかは人生の時期によって違ってくる。自分的には学校の勉強が余暇と仕事、どちらにもあてはまらない領域であると考えるが、生まれて青少年期を経て、皆が言っているまともな仕事につくまではおそらく<遊>の時間であると考える。もちろん、これは自分が経験した限りのことで全世界の人がその過程を過ごせるのではないだろう。それから20代から50代位までは仕...