後期バロックにおけるオペラとオラトリオについて

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    資料紹介

    1700年前後のヨーロッパには、確たるまとまりもないまま多数の国家が群立していた。しかも、そのそれぞれはかなりの程度独立していたので、芸術を保護奨励する政策を取る取らないも各々の意のままであった。今日のドイツには当時300もの国があり、イタリアでも10以上の諸邦がせめぎ合っていた。
    17、18世紀のヴェネツィアは今日と同様有数な観光地であったが、当時の観光客にとってはオペラ見物が大切な目当ての一つだった。オペラのシーズンはいくつかに分かれていたが、最も大切なのは謝肉祭のシーズンだった。これは12月26日から懺悔の火曜日まで続き、その後四旬節である40日間、劇場は閉鎖された。この頃の劇場はヴェネツィアの貴族階級の名家が所有しており、その劇場のある教区の名前が劇場の名前となっていた。そこは音楽を楽しむ場所というよりも社交の場であり、演奏中でも人々は飲食やお喋りやカード遊びをしているのが普通だった。したがってオペラ座の支配人は、オペラ上演の期間中、演奏活動を充たすべく契約を結び、聴衆を十分楽しませる事をその責務としたのであった。そして、作曲家や台本作家、舞台装置家、舞台監督たちは一つのオペラ作品を何度も繰り返して上演し、新しいことを常に試す機会を保証されたのであった。
     バロック・オペラの中で最も重要なのはオペラ・セリアである。オペラ・セリアは原則として三幕仕立てであり、神話や歴史的な題材を用いて、レチタティーヴォとアリアの交替により全体が構成された。当時このオペラ・セリアで重要視されたのは、目を見張るような、人を驚かす装置を作る事であった。17世紀には念の入った舞台装置を用いて、雲に乗って登場する神々や、一つの場面から他の場面への魔術のような早変わり、海での合戦場面などを舞台上でやってのけた。18世紀に入ると経済的な制約のために贅沢な場面を削らざるを得なくなる劇場も出てきたが、それでも視覚的効果は当時の観衆には必要なものであった。

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    1700年前後のヨーロッパには、確たるまとまりもないまま多数の国家が群立していた。しかも、そのそれぞれはかなりの程度独立していたので、芸術を保護奨励する政策を取る取らないも各々の意のままであった。今日のドイツには当時300もの国があり、イタリアでも10以上の諸邦がせめぎ合っていた。
    17、18世紀のヴェネツィアは今日と同様有数な観光地であったが、当時の観光客にとってはオペラ見物が大切な目当ての一つだった。オペラのシーズンはいくつかに分かれていたが、最も大切なのは謝肉祭のシーズンだった。これは12月26日から懺悔の火曜日まで続き、その後四旬節である40日間、劇場は閉鎖された。この頃の劇場はヴェネツィアの貴族階級の名家が所有しており、その劇場のある教区の名前が劇場の名前となっていた。そこは音楽を楽しむ場所というよりも社交の場であり、演奏中でも人々は飲食やお喋りやカード遊びをしているのが普通だった。したがってオペラ座の支配人は、オペラ上演の期間中、演奏活動を充たすべく契約を結び、聴衆を十分楽しませる事をその責務としたのであった。そして、作曲家や台本作家、舞台装置家、舞台監督たちは一つのオペラ...

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