資料:159件
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仏教史2
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平安時代後期仏教の特質を論ぜよ
奈良仏教(南都六宗)との違いを示した最澄、空海の登場によってスタートした平安時代の仏教は、当時化外の地域とされた東北地方まで天台・真言の僧が布教の足跡をのばし、日本全域にひろまった。天台宗は最澄のあとの円仁・円珍のころ、密教(台密)が教学の中心となり、東密(真言密教)とともに,平安貴族の厚い帰依と保護をうけた。
寺院造営や法会や加持祈裳が宮廷貴族社会に盛行し、貴族出身の僧侶が大寺の住持を独占するようになり、平安仏教もしだいに貴族仏教
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仏教史
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平安時代後期仏教の特質を論ぜよ
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龍樹と「大乗仏教」
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一、はじめに
龍樹は古インド仏教の哲学家であり、大乗仏教の創立者。大乗仏教の基本的立場は「空」である。「空」=縁起。縁起とは、相依して生じさせる働き、条件つけの関係によって成立している、永遠不変のものはない。世界中、一切のもの、及ぶ人々の認識、感覚、概念、意識、また、地、水、火、風などの元素は相対的に、依存的関係があり、不真実なものである。
けれども、一切空であれば、森林羅布の「世間万物」はどうやって解説すればいいだろうか。この矛盾を解説するため、龍樹は二諦説(真諦説、俗諦説)を提起した。仏陀は凡夫に、俗諦を採用し、世界と衆生の真実存在を説法する。また、真理を洞察できる人に、真諦を採用し、世界と衆生の真実性を否定して説法する。世俗諦があれば、真諦が達するという考えを提唱する。
二、『般若経』
龍樹思想の依存の経典といえば、『十地経』などもあげられるが、やはり『般若経』である。たとえば、『中論』の帰敬に示される「八不の縁起」にしても、「八千 般若経の教説の中に見て取れることが知られている。
つまり、求道心と難行とに基づく般若波羅蜜の実践者である常諦菩薩が法上菩薩に出会われ、従来持ち続けた疑問を「これらの如来はどこから来られ、どこへ行かれたのですか」と尋ねられたのに、たいして、法上菩薩が「 如来はどこから来られたのでもなく、どこかへ行かれたのでもない」といわれ、さらに、「如来は生じたものではないから、来たり行ったりせず、空性こそ如来である」と答える。そして、蜃気楼や魔法、あるいは、夢の比喩でもって説明する。
1、蜃気楼の比喩
ある人、真夏の暑い日に、水が流れているように陽炎を見る。「ここで水を飲もう」とあちこち駆け回る。その人のことを考えるか、また、その水はどこから来たのであり、この水は何処にいくのか。
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インド仏教の衰亡について
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(1)インド仏教衰亡説
インド仏教の衰亡を説明するものとして、イスラム教徒主犯説、自然衰退説、人類学的視点からの研究などがある。しかし、その本格的な検討は未だ行われていない。
さて、インド仏教の衰亡という認識は、社会的な存在としての消滅という視点に立っている。つまり、宗教を形成する三つの要素である教義、教団、儀礼のうちの教団の消滅を意味している。インド仏教の衰亡を認めた上で、その原因を推理すると、以下のようになるの。内的要因としての、仏教内の各種の要因、仏教外の要因、インド仏教の衰亡は、いわば内的要因と外的要因の二つが合致した、ということであろう。特に外的な要因についての検討では、イスラム教の存在の位置づけ、あるいはヒンドゥー教の存在の関係に関する厳密な検討が必要である。いずれにしても、インド仏教の衰亡研究には仏教内の堕落や、教団の組織化の問題などだけでは説明のつかない、複雑な要素の検討が必要となる。そのために、社会学、比較文明などの視点の導入が必要である。
(2)イスラム史料『チャチュ・ナーマ』
1)史料的価値
『チャチュ・ナーマ』はインド・イスラムの間では、聖なる教えであるイスラム教のインドヘの本格的な伝播、つまり西暦711年に始まるイスラム教徒によるシンド征服に関する記述であることから、一般にもよく知られた存在であるが、同書中には、イスラム初伝以前のインド社会の状況が記述されており、仏教史研究の基本史料としても貴重なものである。特に、西インドにおける末期仏教(おそらく、最初期の密教)の状態を知ることができ、イスラム教への仏教徒からの改宗という事実が明らかとなる点が、インド仏教の衰亡を考える上で貴重である。
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原始仏教を探る
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文字通り、『仏の教え』が仏教である。その原始、創めであるのが仏陀(覚者)による悟りだ。仏教とは『仏になるための教え』でもあるのだが、釈迦はその言葉通り入滅し、仏となる。彼が生まれ、悟り、入滅するまでの様々なエピソードが現代にも伝わっているのだが、今回は悟るまでの釈迦を探っていこうと思う。
釈迦の出生はとても奇妙なものであり、キリストと同様に女性の腹からのものではない。此岸に生まれてくる前、釈迦は兜率天から場所や親となるべき人物を入念に選び、自身の意志によって摩耶夫人の胎内に入りこんだという伝説が残っている。その時の姿は六牙の白象で、右脇からによる。そして生まれる時もまた右脇からであり、七歩進んだ後、蓮の花の上にて、おもむろに右手を天に、左手を地に向ける。恐らく、その時冷静だったのは摩耶夫人のみだったと推察するが、釈迦は『天上天下唯我独尊』と宣言した。伝説に伝説を上乗せたような出生場面だが、とても興味深いものである。
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仏教史1
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奈良時代の仏教の特質を論ぜよ
奈良時代に入ると、遣唐使によって唐から輸入された学問仏教が奈良の諸大寺院で学ばれた。これは一口に南部六宗といわてれおり、三輪・成実・倶舎・法相・華厳・律をいう。これらは総じて聖徳太子の思想を受け、鎮護国家的性格を有していた。
この鎮護国家というのは、仏教によって国家を鎮め護ることを指すのであるが、例えば、『仁王経』『金光明経』『法華経』という経典には、これらの経典を受持する国家は災厄を免れ、繁栄すると説かれているのである。国家から官人に準じる身分的特権を与えられた官僧・官尼は、こういった鎮護国家の教説の研究をしたり、鎮護国家の儀礼の際には経典を読誦すること、病気治療などの呪術に従事したりすることが義務づけられていた。
とりわけ聖武天皇は、
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仏教史
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奈良時代の仏教の特質を論ぜよ
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北魏と仏教
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北魏と仏教
三国の魏から西晋にかけて、遊牧騎馬民族である鮮卑がすんでいた。鮮卑諸部族の中でも慕容部と拓跋部の2部が有力であった。拓跋部は慕容部とちがって従来の遊牧民族の生活方式を保持しながら強勢となり、華北の世界を統一して北魏を建設した。423年明元帝が死んでその子の拓跋トウがついだ。太武帝は崔浩をはじめとする漢人官僚の頭脳と、鮮卑族の勇敢な機動力を持っていた。太武帝は崔浩の推挙した道士を尊信し、みずから太平真君とし、446年に排仏を行い道教を国教とした。そのとき、多くの経典、仏像、塔、寺が姿をけした。なお、崔浩は国史編さんの時に支配者である北族を、漢族の中国文化の立場より取り扱ったためその一族とともに殺された。このころの文化に触れておくと、437年につくられた金剛如来坐像は両肩を覆う通肩の大衣を着ていて、禅定印を結ぶ五胡十六国期の基調をあらわし、柔和な顔つき大衣の左右相称性などの中国化の要素を少し含んでいる。これ以来の仏像の銘文には供養や家族へと記されることもあり、仏教の功徳と儒教の孝徳が同一視されてきていることがわかる 。中国で育った仏教はその他の宗教の影響を受け、それらに影響をあたえ、中国人の要求を満たしていったように思う。452年、太武帝は宦官にころされ、文成帝シュンが13歳で帝位を継いだ。文成帝は仏教の復興の勅をだして、皇帝権力に妥協的であった曇曜を沙門統に任じた。平城には寺院が建設され、その西側雲岡に石窟寺院が造営された。曇曜が作った石窟は曇曜5窟とよばれている。特徴として塑像や壁画がなく、雲岡のやわらかい砂岩に掘り出されたため、壁画のかわりに浮彫りで仏伝図を表している。明るくおおらかな表情と量感にあふれる体は塑像の趣があり自由な豊かさを感じさせる。また胡族芸術ともいえる力強さを感じさせる。第9、10はインド・ガプタ様式を反映している感じがするが第6では中国っぽい感じがある。雲岡石窟は鮮卑族の国家仏教の象徴としてその威信を示そうとするものであった。雲岡石窟は石窟芸術の国際性を示している。仏像の変化はだいたい480年代ごろにみられ、漢族の服飾の特徴が取り入れられてきていることがわかる 。肌の露出は押さえ、厚い長い衣を着、襟に結び紐がついた覆肩衣、襟を打ち合わせる大袖の衣服、襞を畳む下裳また顔立ちや体つきは細くなっていった。
在位6年、献文帝は皇太后にころされ、拓跋宏が5歳で帝位についた。これが孝文帝である。北魏の皇室も外戚の主導権争いが生じ、腐敗が露呈し始めた。鮮卑族の統治階級と、被支配者・漢族との対立が強く現れてくる。太武帝は漢人の豪族名士を登用したが崔浩の天誅事件以来、文成帝、献武帝時代の漢人たちは表面上めだたなかった。しかし、この間、漢族の持つ文明は次第に北族の人々をとりこにしていったのではないかと思う。南朝の宋は政治的に不安定であり、大量の漢人が北魏に亡命した。したがって鮮卑の支配層は、漢人の豪族名門だけではなく、農民たちも安定させなければならなかった。北魏政権の維持のためには、まず農業生産を発展させて、漢族の氾濫を食い止める必要があったのである。孝文帝は漢人の豊かな統治経験を参考としてその要求を満たすために次々と政策を断行していった。孝文帝は中国の統一のためにはまず、漢民族の文化に同化しなければならないがそのためには、都の平城はあまりにも北により過ぎると考えていた。洛陽に都を移す際に南朝を討つ名目で大群を動員して洛陽に到着した。軍臣の反対派多かったが、孝文帝は自ら洛陽遷都を断行した。胡服を着ることは禁止され、また、朝廷では鮮卑
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史学
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東洋文化史
北魏
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