西洋で生まれた科学技術の特徴と日本の自然観を比較する
西洋では17世紀の科学革命によって宇宙観や思想が一新された。当時は自然研究に宗教的な動機が伴っていたのである。その動機とは、ユダヤ・キリスト教にみられる「神の世界創造」つまり神が世界(自然)を作ったので、自然を通して神を理解しよう(=自然神学)というものであり、18世紀後半、その仮説が不要になっても近代科学は自然神学の延長であった。
しかし近代科学では人間が自然を超越し、支配しようとしていた。神が創ったために神と同等であるとされた自然を超越するということは、完全に神の存在を自然から切り離したから可能になったのだろう。近代自然哲学者(=科学者)は、自然の研究は神から与えられた「自然という書物」を読み解くことと考えた。これは宗教的動機に基づいていたと言える。それはこの時点では、まだ科学技術とキリスト教(神)の複雑な関係があったのだ。それはガリレオの弾劾に見て取ることができるだろう。
今日西洋の「科学技術」は神への信仰と自然探求を完全に切り離し、宗教的動機が消え、人間の進歩のために利用するようになった。聖俗革命では「神−自然−人間」という図式から「自然−人間」という図式へ移行したのだ。また西洋の自然研究では数学が用いられた。
一方、日本において「自然」とは本来「おのずから」という意味であったが、西洋文化の投入により、natureの翻訳語としての「自然」も含むようになった。日本における自然観は西洋のものとはかなり異なっていた。
日本の古代世界において人間と自然は共通の生命の中で互いに対応しており、人間と自然の分離がなかった。人間は自然の一部であったのだ。
古代末期及び中世では、中国の仏教や芸術に刺激を受けた。
西洋で生まれた科学技術の特徴と日本の自然観を比較する
西洋では17世紀の科学革命によって宇宙観や思想が一新された。当時は自然研究に宗教的な動機が伴っていたのである。その動機とは、ユダヤ・キリスト教にみられる「神の世界創造」つまり神が世界(自然)を作ったので、自然を通して神を理解しよう(=自然神学)というものであり、18世紀後半、その仮説が不要になっても近代科学は自然神学の延長であった。
しかし近代科学では人間が自然を超越し、支配しようとしていた。神が創ったために神と同等であるとされた自然を超越するということは、完全に神の存在を自然から切り離したから可能になったのだろう。近代自然哲学者(=科学者)は、自然の研究は神から与えられた「自然という書物」を読み解くことと考えた。これは宗教的動機に基づいていたと言える。それはこの時点では、まだ科学技術とキリスト教(神)の複雑な関係があったのだ。それはガリレオの弾劾に見て取ることができるだろう。
今日西洋の「科学技術」は神への信仰と自然探求を完全に切り離し、宗教的動機が消え、人間の進歩のために利用するようになった。聖俗革命では「神-自然-人間」という...