踊念仏は自然発生的に杜会の混乱期にはじめられたものらしい。戦乱とか闘争がくり返され、世の不安がつのるにつれ、人々は何かに頼ろうとする。それが神であり仏であったのだ。神や仏を求め、そして得ることが出来たとき、喜びを外面に表わし、自然と踊りだす。助けてもらえる、救ってくださるという安心感から起こったものである。したがって誰が始めたというものではないようだ。自然に誰かが行ったものが、次第に形を変え整えられていったようだ。ではその形を整えたのは誰なのか。それについてみてみたい。踊念仏の発生については『聖絵』では、
抑をどり念佛は。空也上人。或は市屋。或は四條の辻にて。始行し給たり。
とあることから『聖絵』が成立した当時、踊念仏は空也の始めたものだ、という伝承があったようである。しかし実際は、空也の伝記や、当時の記録したものの中には、空也が踊念仏を始めた、と書いてあるものはない。ただ、『空也上人絵詞伝』に載っている絵から、空也も踊念仏をしていたこはわかる。そしてそれを知っていた一遍がそれを時衆の宗風として盛んにしたのである。
『聖絵』によると、一遍が踊念仏を始めたのは、信州小田切の里である。それがわかるのが、同国小田切の里。或武士の屋形にて。聖をどり始給けるに。道俗おほく集りて。結縁あまねかりければ。次第に相続して。一期の行儀となれり。
という文である。この部分に、次第に相続して行儀となっていった、とあるがその過程をみようと思う。まずここの信州小田切での踊念仏にはまだ踊屋がない。武家屋敷の庭先での踊念仏である。一遍は踊りの集団に加わらず、縁側に立って鉢(修行者が常用している食器)を叩き、庭では時衆の僧尼や武土たち10数人が足を高く上げながら思い思いに踊っている。この頃の踊念仏は「道俗おほく集りて。
踊念仏は自然発生的に杜会の混乱期にはじめられたものらしい。戦乱とか闘争がくり返され、世の不安がつのるにつれ、人々は何かに頼ろうとする。それが神であり仏であったのだ。神や仏を求め、そして得ることが出来たとき、喜びを外面に表わし、自然と踊りだす。助けてもらえる、救ってくださるという安心感から起こったものである。したがって誰が始めたというものではないようだ。自然に誰かが行ったものが、次第に形を変え整えられていったようだ。ではその形を整えたのは誰なのか。それについてみてみたい。踊念仏の発生については『聖絵』では、
抑をどり念佛は。空也上人。或は市屋。或は四條の辻にて。始行し給たり。
とあることから『聖絵』が成立した当時、踊念仏は空也の始めたものだ、という伝承があったようである。しかし実際は、空也の伝記や、当時の記録したものの中には、空也が踊念仏を始めた、と書いてあるものはない。ただ、『空也上人絵詞伝』に載っている絵から、空也も踊念仏をしていたこはわかる。そしてそれを知っていた一遍がそれを時衆の宗風として盛んにしたのである。
『聖絵』によると、一遍が踊念仏を始めたのは、信州小田切の里である。それ...