日ソ国交回復交渉について
はじめに
1952年4月にサンフランシスコ平和条約と日米安全保障条約が発効し、日本は独立国家として国際社会に復帰した。しかし、これは自由主義諸国との単独講和であったため、講和後の日本には、国際社会への復帰を完全なものにするためにもソ連との講和が課題として残っていた。日本が国際連合への加盟を実現するためにも、ソ連との関係改善は必要であった。
吉田茂に代わって政権についた鳩山一郎にとって、ソ連との講和は政治的にも魅力のある課題であった。外交の得意な吉田にできなかったソ連との講和を実現することは、「鳩山ブーム」という国民の期待に応える最も分かりやすい道であった。また戦前からの政党政治家である鳩山の中には、アメリカの協調は必要としても、独立国家としてアメリカから少し距離をおいた「自主独立」を模索するという指向性もあった。
日ソ交渉の開始
ソ連は1953年3月のスターリン死後、西側との緊張緩和を求め、「平和共存」政策をとり始めていた。1955年1月、ソ連は下ソ連代表部首席代表ドムニツキーを通じて非公式に国交正常化交渉を打診してきた。
日ソ国交回復交渉について
はじめに
1952年4月にサンフランシスコ平和条約と日米安全保障条約が発効し、日本は独立国家として国際社会に復帰した。しかし、これは自由主義諸国との単独講和であったため、講和後の日本には、国際社会への復帰を完全なものにするためにもソ連との講和が課題として残っていた。日本が国際連合への加盟を実現するためにも、ソ連との関係改善は必要であった。
吉田茂に代わって政権についた鳩山一郎にとって、ソ連との講和は政治的にも魅力のある課題であった。外交の得意な吉田にできなかったソ連との講和を実現することは、「鳩山ブーム」という国民の期待に応える最も分かりやすい道であった。また戦前からの政党政治家である鳩山の中には、アメリカの協調は必要としても、独立国家としてアメリカから少し距離をおいた「自主独立」を模索するという指向性もあった。
日ソ交渉の開始
ソ連は1953年3月のスターリン死後、西側との緊張緩和を求め、「平和共存」政策をとり始めていた。1955年1月、ソ連は下ソ連代表部首席代表ドムニツキーを通じて非公式に国交正常化交渉を打診してきた。
そうした中で鳩山は、重光葵外相らの慎...