額田王は、万葉集初期の女流歌人である。その出自・経歴年・生没年は不明である。それは、額田王について伝える資料がごく限られていることによる。万葉集の十二種の作品と、日本書紀に「天皇、初め鏡王の女額田姫王を娶して、十市皇女を生しませり」という一文以外に伝えるものはない。始め大海人皇子の后となり十市皇女を生み、後に中大兄皇子の后ともなる。
歌数十二種ではあるが、万葉第一期の歌人としては最も多く、わが国最初の専門的歌人と評されることもあり、万葉集から、近江朝を中心に活躍した歌人であることは間違いない。
あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る
(紫草の生える野を、狩場の標を張ったその野を行きながら、あなたは私の方へ袖を振っておられる。野の番人が見ているではございませんか)
この歌は天智天皇七年五月五日、近江津の宮から一日の行程の蒲生野で、宮廷をあげて薬狩りが行われた際に詠まれた歌である。薬狩りというのは、薬用の鹿の角袋や薬草を採る宮廷行事で、夏の行楽でもあった。
この歌に対し大海人皇子は「紫のにほへる妹を憎くあらば人妻故に吾恋ひめやも(美しい紫草のように匂い立つあなたが憎いのなら、もう人妻なのになんで私が恋をするだろうか)」と詠んでいる。今は天智天皇の後宮に入り近づくことのできない額田王に、かつての夫大海人皇子が忍ぶ恋をするとよめるが、この二種が相聞の部ではなく、雑歌の部に分類されていること、また題詞には「額田王の作る歌」とあって、「贈る歌」とはなっていないこと等から、額田王が大海人皇子個人に向けて思いを伝えた歌ではなく、宴などで公に披露した歌と思われる。(宴で詠まれた歌は「雑歌」に分類するのが万葉集の常道)
このとき大海人皇子は四十歳ぐらい、額田王は三十五歳ぐらいで、当時としてはもうかなりの年配である二人が、おそらく狩りの後のにぎやかな宴席で、「標野=一般のものの立ち入りを禁じた野」「袖振る」「人妻」「野狩=禁野の番人。
額田王は、万葉集初期の女流歌人である。その出自・経歴年・生没年は不明である。それは、額田王について伝える資料がごく限られていることによる。万葉集の十二種の作品と、日本書紀に「天皇、初め鏡王の女額田姫王を娶して、十市皇女を生しませり」という一文以外に伝えるものはない。始め大海人皇子の后となり十市皇女を生み、後に中大兄皇子の后ともなる。
歌数十二種ではあるが、万葉第一期の歌人としては最も多く、わが国最初の専門的歌人と評されることもあり、万葉集から、近江朝を中心に活躍した歌人であることは間違いない。
あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る
(紫草の生える野を、狩場の標を張ったその野...
歌の例がもう少し多ければもう文句なしです。