連関資料 :: 倫理学

資料:100件

  • 倫理
  • 「幸福と理性の関係について述べよ。」 幸福とは、何か。ある人が感じる「しあわせ」は、他の人には必ずしも「しあわせ」と、感じられるものとはいえない。人によってさまざまな捉え方、感じ方があるからである。だが、多くの人々は、自分にとって良いことを幸福と感じ、また、自分の欲求が満たされた状態を、幸福と感じるのである。 アリストテレスによると、人間の営為にはすべて目的があり、それらの目的の最上位には、それ自身が目的である最高善があるとした。 アリストテレスは、人間にとって最高善とは、幸福のことであると考えた。幸福とは、快楽を得ることだけでなく、人間の魂の固有の形相である「理性」を発展させることが、人間の幸福であると説いた。 また、人間の可能性とは、快楽を得ることだけではなく、「理性」を発展させることであって、これが人間の魂に固有な形相なのだとも説いた。 つまり、「理性」という可能性を花開かせることが、人間の幸福ということである。 そして、中庸(度を過ぎないこと)を守ることだと、主張した。たとえば、臆病と無謀の中庸に勇気があり、けちと浪費の中庸に気前の良さがある、ということである。 このように、ア
  • 990 販売中 2008/09/16
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  • 倫理概論
  • 佛教大学通信教育課程での【倫理学概論】合格レポートです。 設題 カントの「実践理性批判」について、「定言命法」の                特質をまとめ、自分の意見を述べよ。 参考文献 ・倫理学概論 小笠原秀美 著 佛教大学 ・自分で考える勇気 カント哲学入門 御子柴善之 著 株式会社岩波書店 ・もういちど読む山川倫理 編者 小寺聡 株式会社山川出版社 リポート作成の助けになればと思います。 丸写しは厳禁となります。 本リポートの使用に係る責任は一切取ることができません。自己責任でお願い致します。 誤変換などによる誤字・脱字がある場合がございます。ご容赦ください。
  • 佛教大学 倫理学概論 倫理学 カント
  • 550 販売中 2024/07/31
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  • 倫理通論
  • まず、日本人は資格の違いに関係なく、ある枠によって集団が作られている場を大切に考えるといわれる。ここでいう場とは、具体的に言うと、その個人の住む地域や所属機関などを表している。日本人は、自己紹介するときに、「私は大学に通っています。」とか「私は○○会社のものです。」というように行なうことが多い。このことは、その個人が持つ資格自体を軽視して、その個人の場に重点を置いていると考えられる。この場の中での関係を見てみると、そこにはタテ社会と呼ばれるものがある。これは、同一集団内の同一資格を持つものでも、何らかの方法で差が設定され、強調されることで、精密な序列ができた結果である。
  • レポート 心理学 タテ社会 終身雇用 序列 集団 倫理 倫理学 個人 組織 組織行動
  • 550 販売中 2006/06/21
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  • 倫理概論 実存主義とカント主義とプラグマティズムの倫理について
  • 実存主義とカント主義とプラグマティズムの倫理学について説明する。  まず、実存主義であるが、実存主義にとって重要なことは、世界や人間をいかに解釈するかということではなくて、今ここにいる現実の存在たる私が、いかに生きるかが問題なのであり、主体的に生きぬくことを離れて思索ということは無意味であるという。したがって、このような主体的、実践的な立場にとって、自由の概念は、その思想の中心的意義をもつ概念と考えられるのである。  実存主義に属する思想家の一人ヤスパースの考えによると、哲学の根本性格は、「挫折を通じて超越すること」にある。つまり、対象的にせよ主体的にせよ、われわれの思索は、必ず、何らかの限界にぶつかって難破してしまう。しかし、この難破を通じて、実は、より広い深い地平が開かれてくるのである。そして、このような挫折を通じての超越は、言葉を換えて言えば、主体的な思索であり、実存的自由であるともいえる。  次にカント主義であるが、カントは真に道徳的と呼ばれるべき命法は、当然、定言命法でなければならないとした。それは、端的に「正直であれ」という無条件の方式をとるものである。  第1の定言命法
  • 倫理 戦争 哲学 道徳 思想 人間 自由 経験
  • 550 販売中 2009/03/16
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  • 倫理概説1
  • 私は、実践とは、目的を定め、目的へ到達する手段をいくつも考え、可能であるものを選択する、以上が本人の頭の中で計画したことであるが、これらの計画がうまくいく可能性はともあれ、現実化することが実践の意義であると考えた。アリストテレスのニコマコス倫理学を通して「実践の意義」を考察していきたいと思う。  アリストテレスは『ニコマコス倫理学』で実践に関する一連の行動を「目的」「思量」「選択」の三段階に分けた。アリストテレスは、本人の望むことが善を意味するとしている。善き人にとっては真の意味における善が、悪しき人にとっては任意のものが願わしきものとなる。つまり、各人の状態によって「目的」が異なるのである。その「目的」へ達するための手段を状況に応じて考えることが「思量」である。アリストテレスは「我々が思量するのは、我々の力の範囲内に属し、我々のなしうるところの事柄に関してである」と述べている。つまり、自分自身が現実としてできること、常識的な範囲内の手段を考えることであるということであろう。そして、自分自身の出来る範囲の手段から願望を実現できる手段を「選択」するのである。  例えば、私は現在空腹であ
  • 倫理学 東洋大学 通信教育課程
  • 550 販売中 2008/03/17
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  • 倫理概論2
  • カントの「純粋理性批判」を読んで純粋理性の根本法則について知るところを書くこと。  テキスト、第三編、第二期、第五章  まず、定言命法であろう。これはカント倫理学における根本的な原理であって無条件に「~せよ」と命じる絶対的命法である。『人倫の形而上学の基礎付け』において提出され、『実践理性批判』において理論的な位置づけが若干修正さた。 『実践理性批判』の§7において「純粋実践理性の根本法則」として次のように定式化される。 「あなたの意志の格率が常に同時に普遍的な立法の原理として妥当しうるように行為せよ」 、この根本法則に合致しうる行為が義務として我々に妥当する行為なのである。他のあらゆる倫理学の原則が「~ならば、~せよ」という仮言命法の形をとるのに対して、カントの定言命法は「~ならば」という条件節を欠き無条件に行為することを要求する。例えば、「幸福になりたいならば嘘をつくな」という仮言命法を採用する場合、幸福になることと嘘をつかないことの間の必然的な関係が問題となる。幸福になることが目的であり嘘をつかないことは手段にすぎないから、誠実さと幸福の間に必然的な関係が見出されない場合には幸福
  • 倫理 子ども 道徳 人間 自由 自然 旅行 原理 カント
  • 990 販売中 2009/08/10
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  • 倫理演習レポート
  • 著者・相良氏自身がまえがきにおいて語るように、「日本人の心」は日常生活の中では全くと言ってよいほど意識の及ばない場所である。日本人をひとくくりにして、その心とはこういうものであると定義することは不可能なので、日本人の精神傾向について書かれた著作と見るのが妥当であろう。だが、それにも関わらず、この「日本人の心」という題名は強く日本人を惹き付けるのである。日本人とはいかなるものかという傾向を知ることによって、自らの生きる方向を探ろうとする気持ちが私たちの中に渦巻いているからではないだろうか。日本人として生きるためには、日本の習慣、儀礼など様々なものを自然に受け入れる必要性がある。「郷に入れば郷に従え」である。そのようなある種の制約の中で、日本人が追求しつづけたものは何か。守り続けてきたものは何か。三章では日本人は心情の純粋性・無私性を追求してきて、それが日本的な倫理の基本的な性格であると述べられている。 相良氏は『誠実と日本人』という著作の中で、母子道連れ心中と安楽死に日本人の「他者に対する誠実の欠落」を見ている。授業の中でも幾度か取りあげられたテーマであるが、十分な思考が出来ないまま自分の結論を求めたために、宙ぶらりんな状態のまま放置してしまっていたのでもう一度じっくり考え直してみようと思った。母子道連れ心中は、現代でも頻繁に起こっている事件である。それをテレビのニュースなり、新聞なりで知ったとき、私が一番初めに考えることは、母親はどんなに大きな悩みを抱えていたのだろうか、と言うことである。そしてその悩みが自分に耐えられるものではないと判断すれば、心中は妥当な選択であったと考えるだろうし、理解に苦しむものならば、子どもを不憫に思うだろう。つまり第三者は「自らの考え」もしくは「自ら」に対してのみ誠実なのである。 さて母子道連れ心中における問題は、母親が子どもを他者と見るか、見ないか、ということである。つまり「他者に対する誠実」の有無である。ほとんど全ての母親は子どもを「かわいい」と感じる。そして、彼、彼女に対し誠実であろうとする。自分が相手に対し誠実であれば、相手にとって必ずや良い結果になると信じているからである。このような場合、その誠実な行為がアリガタ迷惑になるということは全く想定されていないことがしばしばである。誠実な行為がアリガタ迷惑になるということは、結果的にその決断が母親自身に対してのみ誠実であったということである。子どもに対して誠実であろうとしても、最終的にその決断は自己満足の域を脱することはできない。  相良氏は、ルース・ベネディクトの『菊と刀』から日本人捕虜の誠実に関するエピソードを引いている。捕虜になった日本人はまず殺せというが、国際法上それはできないというと、やがて日本に対しての爆撃に協力し始めるというものである。相良氏はこの事例は「日本人の誠実には方向性がない」ということを示しているという。だがこれは誠実に方向性がある・ないの問題ではなくて、やはり個々が自身のなかで何に対して誠実であるかという問題である。この爆撃に協力した捕虜はアメリカ軍に対して誠実というより、自らの命に対して誠実であったといえよう。自らの信念に誠実なものであれば、最期まで「天皇万歳」と叫びながら自害するはずである。 誠実というのは古代においては清き明き心、更に正直を経て、近世の誠となった歴史を持っているが、現代における意味は「相手に一番良いように考え、行動すること」と考えて差し支えないと思う。誠実がこのような意味であるとすると、母親が子どもに対して誠実であろう
  • 《レポート》 相良亨「日本人の心」における武士道
  • 550 販売中 2007/12/07
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