「学ぶ」ということと、「教える」ということにはどのような関係があるのだろうか。現在学生である私は、小学校入学以来、非常に長い間、学ぶことをしてきた。この学ぶ体験は、これまでの私の「学ぶ」体験の継続であり、延長線上、連続線上にあるとみなすことばできる。では、「教える」ということは、私自身の「学ぶ」体験の延長線上にある体験としてとらえることができるだろうか。確かに、「教える」体験とは、「教える体験」を「学ぶ体験」として考えればとらえることばできる。しかし、教師として教えるということと、私自身の学ぶ体験を、単なる延長線上にとらえることは十分ではない。たとえば、「優れた学者が、優れた教師にはあらず」というように、いくら深い知識を持った人でもち、多くのことを学んだ人でも、教え方がそれと一致してうまいとは限らないのは、よくあることである。
では、今まで自分が「学んで」きたことを「教える」ということは、どういうことだろうか。それを「教える」とは、子供たちがそれを「学ぶ」という出来事を、私が創り出すことである。これまでのように、それをわたしが「学ぶ」ことではなく、いまや、子供達ひとりひとりが、それを「学ぶ」という出来事が問題となっており、しかも、その出来事をほかならぬ私が生み出さなくてはならないのである。私と、私が教える子どもは、ことなる他者である。だから、私の学んだ体験と、子供達に私が教えることによって学ぶ体験は別個のものであり、連続性はない。私の学んだ体験を子供は共有していない。だから、私が良かれと感じてやったことが、必ずしも子供に対してよいとは限らない。また、一人の生徒に対しては有効でも、他の生徒にも当てはまるとは限らない。
学ぶから教えるへ 教師として教えるということ
「学ぶ」ということと、「教える」ということにはどのような関係があるのだろうか。現在学生である私は、小学校入学以来、非常に長い間、学ぶことをしてきた。この学ぶ体験は、これまでの私の「学ぶ」体験の継続であり、延長線上、連続線上にあるとみなすことばできる。では、「教える」ということは、私自身の「学ぶ」体験の延長線上にある体験としてとらえることができるだろうか。確かに、「教える」体験とは、「教える体験」を「学ぶ体験」として考えればとらえることばできる。しかし、教師として教えるということと、私自身の学ぶ体験を、単なる延長線上にとらえることは十分ではない。たとえば、「優れた学者が、優れた教師にはあらず」というように、いくら深い知識を持った人でもち、多くのことを学んだ人でも、教え方がそれと一致してうまいとは限らないのは、よくあることである。
では、今まで自分が「学んで」きたことを「教える」ということは、どういうことだろうか。それを「教える」とは、子供たちがそれを「学ぶ」という出来事を、私が創り出すことである。これまでのように、それをわたしが「学ぶ」...