1.神の似姿としての人間(創世記1章)
「我々にかたどり、我々に似せて人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」神は御自分にかたどって人を創造された。と聖書にある。このことから、神の似姿(imago dei, image of God)としての人間とは「世界を支配する」人間である、と多くの人は考える。しかし、この「支配」とは「管理」の意味である。時に、「世界を支配する」人間という考え方が、環境危機の原因ではないかと議論の焦点になることもある。
2.自己愛としての罪(創世記3章)
罪=自己愛=自己中心性である。自己中心性とは、自分本位に物事を考えることであり、神を裏切ったということである。創世記3章では、男と女は蛇に誘惑され、善悪の果実を食べてしまい、神の言ったことを守らなかった。自分の欲を優先させ、神に従うことは二の次になってしまった。つまり、今まで神中心性だったのが、自己中心性となってしまった。自己中心性は、人間の行動原理である。
3.善悪果(創世記3章)
善悪果の効能は、食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなれることである。善悪果を食べることで、論理的に考える力、理性を得ることができる。蛇に誘惑されたとはいえ、これを食べるという行為は、神への従順よりも自己の欲求が優先されたことを示している。神中心性から自己中心性への移り変わりである。善悪果を食べ、知恵・理性を得る代わりに、罪とされる自己中心性のもとで生きることとなった。
信仰とは、自分を「無」にすることであるから、善悪果を食べ、知恵・理性を得たということは、自分を「無」にすることが難しくなり、それゆえ、この行為は「罪」なのである。
キリスト教学-Topics
1.神の似姿としての人間(創世記1章)
「我々にかたどり、我々に似せて人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」神は御自分にかたどって人を創造された。と聖書にある。このことから、神の似姿(imago dei, image of God)としての人間とは「世界を支配する」人間である、と多くの人は考える。しかし、この「支配」とは「管理」の意味である。時に、「世界を支配する」人間という考え方が、環境危機の原因ではないかと議論の焦点になることもある。
2.自己愛としての罪(創世記3章)
罪=自己愛=自己中心性である。自己中心性とは、自分本位に物事を考えることであり、神を裏切ったということである。創世記3章では、男と女は蛇に誘惑され、善悪の果実を食べてしまい、神の言ったことを守らなかった。自分の欲を優先させ、神に従うことは二の次になってしまった。つまり、今まで神中心性だったのが、自己中心性となってしまった。自己中心性は、人間の行動原理である。
3.善悪果(創世記3章)
善悪果の効能は、食べると、目が開け、神のように善悪を...