「日本の『格差』を考える」
~教育にみる格差社会~
■はじめに
「格差」、この言葉をきいたときにまず思い浮かべるものといえば先進国と発展途上国の格差である。「南北問題」や「南南問題」といった言葉は私だけではなく多くの人に対し程度の差こそあれ「経済格差」のイメージを起こさせるであろう。
一方、この「格差」の話が国内に限定されたものとなると話は違ってくる。「日本の格差」ときいて具体的にイメージできるものはあまりない。強いて言えば、お金持ちの政治家や芸能人と庶民の差、またニュースなどで取り上げられるホームレスの存在などが考えられる。しかし実感として「格差」をそこまで深刻に考えたことはなく今までの友人たちとの付き合いの中でも多少の差こそあれ、(「あいつの家はお金持ちだ」といった感覚などはあった)極端な格差を実感したことはない。
これは私の個人的な感覚であるが、実際に「一億総中流」といった言葉に象徴されるように日本は平等社会であるとされてきた。しかしその事実は今崩れかかっているのである。
「日本の格差」は所得や福祉などさまざまな点から見ることができるが、今回は教育からの視点から考えていきたい。
■日本経済の軌跡
まず現在の格差を考えるために一番「格差」のイメージを掴みやすい経済から考えていきたい。それにあたり日本経済が積み上げてきた歴史について確認しておきたい。
まず太平洋戦争以前のいわゆる「戦前」の時期であるが、結論からいってこの時代は「不平等社会」であった。一応「資本主義」の体裁をとっていたとはいえそれがうまく機能していたとは言いがたい。「公侯伯子男」と言われた華族などの身分制や、地主・小作人の問題、財閥といった大資本家の存在、また参政権が男性のみに与えられているなど、あらゆる面で不平等が存在した。
所得の面でもケタ外れの不平等があったと思われる。たとえば製造業会社の賃金でみれば平の工員を1としたとき、工場長は17.27倍、工場長代理は10.25倍もの賃金をうけとっていた。現代においては工場長の年収はせいぜい3~4倍程度である。
ただこういった状況は敗戦を機に始まったアメリカ占領軍による改革で少しずつ変わり始める。財閥解体、農地改革、労働民主化、税制改革、そして教育の機会均等に代表される五改革が行われたためである。
ではこの五改革のうちの「教育改革」についてもう少し掘り下げてみたい。まずなんといっても特筆すべきは義務教育の設定である。これにより国民の教育水準は大幅に上がることとなった。そしてそれに呼応するような形で高等教育、すなわち高校や大学への進学率が高まった。また男女共学制度も開始され、これは女性の地位の向上にも寄与した。現在においては短大を含めると男性より女性の進学率のほうが高いのである。
また民主化政策の流れで授業料の軽減の流れが進んだ。それまでは本人の能力や努力に加えて家庭の経済力が必要であったが、これによりその負担が少なくなった。後述するようにこのことを無碍に受け入れるのは少々違うと考えるが、程度の差こそあれ教育の平等化に寄与したことは評価できる。
その後1950年には朝鮮戦争が勃発し、日本国内は「朝鮮特需」に沸いた。そしてそこから日本は「高度経済成長」へと突入していった。そして日本は「バブル崩壊」を迎えるのである。
■「教育の平等」は本当に達成されているのか
ここでの「教育」とは「高等教育」に言及するものである。前項で「授業料の軽減の流れ」の存在をかいたが、いくら軽減された
「日本の『格差』を考える」
~教育にみる格差社会~
■はじめに
「格差」、この言葉をきいたときにまず思い浮かべるものといえば先進国と発展途上国の格差である。「南北問題」や「南南問題」といった言葉は私だけではなく多くの人に対し程度の差こそあれ「経済格差」のイメージを起こさせるであろう。
一方、この「格差」の話が国内に限定されたものとなると話は違ってくる。「日本の格差」ときいて具体的にイメージできるものはあまりない。強いて言えば、お金持ちの政治家や芸能人と庶民の差、またニュースなどで取り上げられるホームレスの存在などが考えられる。しかし実感として「格差」をそこまで深刻に考えたことはなく今までの友人たちとの付き合いの中でも多少の差こそあれ、(「あいつの家はお金持ちだ」といった感覚などはあった)極端な格差を実感したことはない。
これは私の個人的な感覚であるが、実際に「一億総中流」といった言葉に象徴されるように日本は平等社会であるとされてきた。しかしその事実は今崩れかかっているのである。
「日本の格差」は所得や福祉などさまざまな点から見ることができ...