日本三大チャイナタウン

閲覧数5,549
ダウンロード数28
履歴確認

    • ページ数 : 7ページ
    • 会員550円 | 非会員660円

    資料紹介

    1.はじめに
     日本三大チャイナタウンとは、横浜中華街・神戸南京町中華街・長崎新地中華街をさす。今日では観光地として、多くの人を呼び寄せる中華街ではあるが、その共通点とは何か。共通点としては、地理的要件として貿易港として機能する港があること、時代背景として日本が300年近い鎖国を解いて、欧米列強と通商を開始した変化に富んだ時代に始まりがあることである。日本三大チャイナタウンの最大の特長と機能は、観光地化である。チャイナタウンとは本来、異国の地において同胞が協力して生きていくために華僑たちが、寄り添って構築した小中華の空間である。日本の場合は、伝統的チャイナタウンの機能としての居住空間の役割に加え、その空間の多くが観光客のために広く開放されている。このことを踏まえて、各中華街の形成過程と、特徴を見て比較していきたい。
    2.横浜中華街
     日本への華僑の流入は、幕末に日本が欧米列強との間に諸々の通商条約を結び、各地の港が開港したことに端を発する。西洋人の使用人、港での荷降ろしなどの労働者、行商など当時の華僑が就いていた仕事は様々である。中でも当時重宝がられていたのは、まだ西洋との本格的な貿易に不慣れな日本人と、西洋人との間を取り持つ買弁としての役割であった。これは、横浜・神戸・長崎に共通して言えることである。
     横浜は1859年に開港し、8年後には華僑人口は660人、1870年には1002人へと進出増加していく。横浜の外国人居留地では、海岸通りやメインストリートの本町通りには、欧米系の商館が立ち並び、中国人は本町通りの後方、旧横浜新田の一角にぽつぽつと居を構えていった。1877年ごろには、チャイナタウンには不可欠な、関帝廟(三国志の関羽を奉った寺院)・相互扶助のための中華会館・中国人墓地が建設され、横浜中華街が形成されていったとされている。

    資料の原本内容 ( この資料を購入すると、テキストデータがみえます。 )

    日本三大チャイナタウンの形成過程と特徴
    もくじ
    はじめに
    横浜中華街
    神戸南京町
    長崎新地中華街
    新しい形のチャイナタウン
    三大チャイナタウンの考察
    参考文献
    1.はじめに
     日本三大チャイナタウンとは、横浜中華街・神戸南京町中華街・長崎新地中華街をさす。今日では観光地として、多くの人を呼び寄せる中華街ではあるが、その共通点とは何か。共通点としては、地理的要件として貿易港として機能する港があること、時代背景として日本が300年近い鎖国を解いて、欧米列強と通商を開始した変化に富んだ時代に始まりがあることである。日本三大チャイナタウンの最大の特長と機能は、観光地化である。チャイナタウンとは本来、異国の地において同胞が協力して生きていくために華僑たちが、寄り添って構築した小中華の空間である。日本の場合は、伝統的チャイナタウンの機能としての居住空間の役割に加え、その空間の多くが観光客のために広く開放されている。このことを踏まえて、各中華街の形成過程と、特徴を見て比較していきたい。
     
    2.横浜中華街
    日本への華僑の流入は、幕末に日本が欧米列強との間に諸々の通商条約を結び、各地の港が開港したこと...

    コメント0件

    コメント追加

    コメントを書込むには会員登録するか、すでに会員の方はログインしてください。