教育学
学級崩壊 現代の子どもと向き合うには
1.現在の子どもたち
・学校が荒れる
→ これまでは一部の「不良」と呼ばれる子どもたちによるもの、現在の「荒れ」は、一部の子どもではなく、「普通の子」によるもの。
・学校の吸引力
これまでの子どもたちの「荒れ」
→ 受験競争からはじき出されたこと、「落ちこぼれ」ることが原因となって、自己存在を不安定にしたもの。(学校社会への強い囚われ)
学校の持つ聖性自体が喪失。(新しい発想)
「落ちこぼれ」る不安から「荒れる」。よりも、する意味の分からなくなってきた勉強・授業が、強制力を持ち得ないという側面。
・親の世代
子どもがパニックになる→親からの愛情不足などが原因。
「新人類世代」少年・青年期をすでに今日の消費・情報化社会で過ごしてきた。
モラトリアム傾向。個人主義的な行動様式。 (これまでの世代には理解できないような)
彼らが少年期を過ごした70年代
→ 子どもの「発達の危機」。受験圧力が急速に高まった時代。その結果、「落ちこぼれ」。「非行」。現在いわれる「教育問題」の原型。
・消費社会の子どもたち
今日を生きる子どもたち
→ 成熟しきった情報化・消費化社会のただ中。
2.子どもたちと関わるということ
・どのように向き合うのか
今の若者→楽しさ、ノリの良さが、場の雰囲気を構成。
高度な主体性が必要。自分の世界観の形成、認識論的な成熟と平行した形で、自分が何をするのかを決めていける創造的な主体性が必要。
小学校・中学校の教室で、子どもが授業中に立ち歩く、騒ぐ、パニックを起こす、教師の注意にも耳を傾けない、授業が成立しなくなってきた、いわゆる「学級崩壊」がいわれて久しい。「学級崩壊」という言葉は、元々はマスコミから生まれた言葉であり、文部省はこのように形容されることを遺憾であるとしてきたが、最近では、認めざるを得ないような状況が生まれてきている。なかなか私たちには実感しづらいのであるが、それだけ、現場における子どもの「荒れ」が顕著になってきているということであろう。
「荒れる」ということは、子どもたちが何らかの苦しみや、いらだちを抱いているということであるが、そのような状況において、子どもたちと接していかなくてはならない教師たちもまた、悩みの渦中にいる。教師が、ストレスから体調を壊したり、登校拒否に陥る例も現れているのだという。
学校が荒れるといえば、これまでは一部の「不良」と呼ばれる子どもたちによるものがいわれたが、現在の「荒れ」は、一部の子どもではなく、「普通の子」によるものであるから問題が複雑化するのだろう。今日の子どもたちが生きる社会・文化の諸条件を見てみることにする。
これまでの子どもたちの「荒れ」は、ごくおおざっぱに言えば、受験競争からはじき出されたこと、「落ちこぼれ」ることが原因となって、自己存在を不安定にしたものであると考えられる。裏を返せば、それだけ学校社会への強いとらわれがあったということであるが、最近では、その学校そのものの吸引力の低下が指摘されている。元来、公教育は、高度産業社会の形成をめざして導入されたものであり、目標が現実となった今日、学校の持つ聖性自体が失われているのだ、というのである。受験圧力がなくなったとは思えないが、最近の不況、就職難も手伝ってか、高学歴神話は崩れつつあり、必死になってがんばるよりも、適当にやって今を楽しんだ方がいい、という発想が子ども・若者たちの間で広がってきていることも事実であるように思える。つまり、
教育学
学級崩壊 現代の子どもと向き合うには
1.現在の子どもたち
・学校が荒れる
→ これまでは一部の「不良」と呼ばれる子どもたちによるもの、現在の「荒れ」は、一部の子どもではなく、「普通の子」によるもの。
・学校の吸引力
これまでの子どもたちの「荒れ」
→ 受験競争からはじき出されたこと、「落ちこぼれ」ることが原因となって、自己存在を不安定にしたもの。(学校社会への強い囚われ)
学校の持つ聖性自体が喪失。(新しい発想)
「落ちこぼれ」る不安から「荒れる」。よりも、する意味の分からなくなってきた勉強・授業が、強制力を持ち得ないという側面。
・親の世代
子どもがパニックになる→親からの愛情不足などが原因。
「新人類世代」少年・青年期をすでに今日の消費・情報化社会で過ごしてきた。
モラトリアム傾向。個人主義的な行動様式。 (これまでの世代には理解できないような)
彼らが少年期を過ごした70年代
→ 子どもの「発達の危機」。受験圧力が急速に高まった時代。その結果、「落ちこぼれ」。「非行」。現在いわれる「教育問題」の原型。
・消費社会の子どもたち
今日を生きる...