韓国併合

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    資料紹介

    まず、韓国併合までの過程を述べると、1907年7月、日本政府は適当な時期に韓国を併合する方針を閣議決定して、これに基づいて一層の拡大をはかった。また、韓国司法および監獄事務委託に関する日韓覚書が調印され、11月に韓国政府の法部は廃止され、裁判所や検事局、監獄は統監府に移管された。初代統監だった伊藤博文は安重根に射殺され、一進会は合邦声明書を発表した。これは、韓国の併合が朝鮮人の願いに沿ったようにみせかけていたが、日本は併合の方針をすでに決定していたのである。1910年4月に第2回日露協約締結交渉のなかで、ロシアは日本の韓国併合を承認し、5月にイギリスも承認した。このようにして、日本は韓国を併合していくこととなった。6月3日に日本政府は、併合後の植民地統治の基本方針である韓国に対する施政方針を閣議決定した。その後、韓国警察事務委託に関する日韓覚書が調印され、韓国政府の警察が統監府に移管され、憲兵中心の警察制度である憲兵警察制度が成立した。

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     まず、韓国併合までの過程を述べると、1907年7月、日本政府は適当な時期に韓国を併合する方針を閣議決定して、これに基づいて一層の拡大をはかった。また、韓国司法および監獄事務委託に関する日韓覚書が調印され、11月に韓国政府の法部は廃止され、裁判所や検事局、監獄は統監府に移管された。初代統監だった伊藤博文は安重根に射殺され、一進会は合邦声明書を発表した。これは、韓国の併合が朝鮮人の願いに沿ったようにみせかけていたが、日本は併合の方針をすでに決定していたのである。1910年4月に第2回日露協約締結交渉のなかで、ロシアは日本の韓国併合を承認し、5月にイギリスも承認した。このようにして、日本は韓国を併合していくこととなった。6月3日に日本政府は、併合後の植民地統治の基本方針である韓国に対する施政方針を閣議決定した。その後、韓国警察事務委託に関する日韓覚書が調印され、韓国政府の警察が統監府に移管され、憲兵中心の警察制度である憲兵警察制度が成立した。
     1910年7月には、韓国駐箚軍の命令を受けて、一個連体相当の兵力が各地から漢城に集結し、警備は強化された。そして、8月22日に李完用と韓国併合...

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