●秦における「郡県」「封建」論争
【第一次論争】
始皇二十六年、当時の丞相王綰と廷尉李斯との間で起きる。王綰は地方統治のため各地に王を置くことを提案して多くの支持を得るが、李斯は周の例(諸侯が力を持ち、周王では抑えきれなくなって王権が崩壊した)を示し、皇帝の下に権力を集中させ全国的に統治することが「安寧之術」だと説いた。始皇帝はこの意見を採り、封建論者を退けて郡県制を施行する。
【第二次論争】
始皇三十六年、博士淳于越と丞相李斯の間で起きる。殷・周は封建制を用いて長く続いたと言う淳于越に対し、李斯は、政治形態はその時代によって変化するものとし、郡県制が施行された現在が平和であることを確認した上で、その有効性を主張した。また李斯は、愚儒は過去を是として現在を否定すると説き、「焚書」を提案する。
●思想的立場
李斯の考えには韓非子の影響が見られるとされる。韓非子は、過去の書籍の教えは無益有害なもので、重要なのは法であると説いた。李斯の意見もこれに基づいたものである。
すなわち、「過去の事例で現在を計るのではなく、現在を肯定する事で新しい時代を築き上げる」という後王思想であった。また始皇帝は自らが新しい世界を作り出すという事に執着した。
「秦時代の地方統治制度論議」
●秦における「郡県」「封建」論争
【第一次論争】
始皇二十六年、当時の丞相王綰と廷尉李斯との間で起きる。王綰は地方統治のため各地に王を置くことを提案して多くの支持を得るが、李斯は周の例(諸侯が力を持ち、周王では抑えきれなくなって王権が崩壊した)を示し、皇帝の下に権力を集中させ全国的に統治することが「安寧之術」だと説いた。始皇帝はこの意見を採り、封建論者を退けて郡県制を施行する。
【第二次論争】
始皇三十六年、博士淳于越と丞相李斯の間で起きる。殷・周は封建制を用いて長く続いたと言う淳于越に対し、李斯は、政治形態はその時代によって変化するものとし、郡県制が施行された現在が平和であることを確認した上で、その有効性を主張した。また李斯は、愚儒は過去を是として現在を否定すると説き、「焚書」を提案する。
●思想的立場
李斯の考えには韓非子の影響が見られるとされる。韓非子は、過去の書籍の教えは無益有害なもので、重要なのは法であると説いた。李斯の意見もこれに基づいたものである。すなわち、「過去の事例で現在を計るのではなく、現在を肯定する事で新しい時代を築き上げる」という後...