捨身の始まりは5世紀初頭頃とされている。法隆寺の“玉虫厨子”の捨身飼虎図や仏典である『ジャータカ』の一節にその様子がうかがえる。
捨身という行為は意味的に大きく四つに分けられる。本来の原義的な考えでは、捨身は他者のためや仏法供養のため、求法のため、あるいは肉体の束縛からの解放のために自らの身体(の一部あるいは全部)や命をささげるというものだった。その方法は焼身や刺血写経など苛烈なものばかりである。例としては、『ジャータカ』におけるブッダの前世の話がある。そのときブッダは猿のリーダーであった。ある日敵に追い詰められ川にさしかかったとき、女子供が渡れないのを見て自分の体を橋として渡れるようにした、という物語である。
捨身の始まりは5世紀初頭頃とされている。法隆寺の“玉虫厨子”の捨身飼虎図や仏典である『ジャータカ』の一節にその様子がうかがえる。
捨身という行為は意味的に大きく四つに分けられる。本来の原義的な考えでは、捨身は他者のためや仏法供養のため、求法のため、あるいは肉体の束縛からの解放のために自らの身体(の一部あるいは全部)や命をささげるというものだった。その方法は焼身や刺血写経など苛烈なものばかりである。例としては、『ジャータカ』におけるブッダの前世の話がある。そのときブッダは猿のリーダーであった。ある日敵に追い詰められ川にさしかかったとき、女子供が渡れないのを見て自分の体を橋として渡れるようにした、という物語である。
しかし時代が進むにつれて、自らの財産を他者、あるいは寺院に布施するといった、いわゆる「喜捨」と呼ばれるべき行為までもが「捨身」と称されるようになっていった。これは主に在家信者が行ったものである。の代表的なものは梁の武帝が行ったものである。彼はその生涯に少なくとも3~4回の財産喜捨による「捨身」を行っているが、それらはほとんど慣例化・儀式化されていた。まず自分の住んでいる台城から...