16世紀後半、ロンドンでは独自の劇場文化が花開いた。というのも、ヨーロッパ大陸のルネサンスの波動がイギリスに押し寄せてきたのが16世紀であり、エリザベス女王のもと、国力の充実に伴い、イギリス・ルネッサンスの文化の花が一挙に開花したためである。新古典主義の悲劇や喜劇は大学で上演されていたが、エリザベス朝の劇詩人の多くは新古典主義の美学を眼中にいれなかった。また、観客として貴族だけを念頭におくヨーロッパ大陸の戯曲とはことなり、ロンドンの劇場では貴族だけでなく、一般の民衆も貴族と同時に一つの劇場で観劇することが多かった。そのため劇作家は工夫を凝らし、あらゆる階層の人に受け入れられるような戯曲を書く必要があった。貴族だけでなく、一般市民を観客に取り込んだことは、商業演劇の発展の要因といえるだろう。当時イギリスは経済的にも政治的にも発展の途上にあり、英語という言語自体も新しい発展をとげていて、トマス・キッドやクリストファー・マーロウといった劇作家たちが叙事的でダイナミックな戯曲を書いていた。しかし、なんといっても演劇史を代表する存在は、シェイクスピアである。シェイクスピアについては、いまさら説明することもないが、当時から、最も優れた劇作家として名高く、多くの民衆を魅了した。エリザベス朝初期の演技スタイルも、戯曲同様、大げさで芝居がかったものだったが、シェイクスピアの時代になると抑制された自然な演技が主流になった。シェイクスピア以降は、ベン・ジョンソンのように新古典主義の規則に厳密にしたがって戯曲を書く作家が多く生まれた。
さて、この時代に演劇が盛んになると、ロンドンに劇場が作られるようになった。それまでは、宮廷や貴族の邸宅の大広間、さらには宿屋の中庭に作られた仮設の舞台(宿屋劇場)などで上演されていたが、1570年代後半から、劇場が建設されるようになったのである。
16世紀後半、ロンドンでは独自の劇場文化が花開いた。というのも、ヨーロッパ大陸のルネサンスの波動がイギリスに押し寄せてきたのが16世紀であり、エリザベス女王のもと、国力の充実に伴い、イギリス・ルネッサンスの文化の花が一挙に開花したためである。新古典主義の悲劇や喜劇は大学で上演されていたが、エリザベス朝の劇詩人の多くは新古典主義の美学を眼中にいれなかった。また、観客として貴族だけを念頭におくヨーロッパ大陸の戯曲とはことなり、ロンドンの劇場では貴族だけでなく、一般の民衆も貴族と同時に一つの劇場で観劇することが多かった。そのため劇作家は工夫を凝らし、あらゆる階層の人に受け入れられるような戯曲を書く必要があった。貴族だけでなく、一般市民を観客に取り込んだことは、商業演劇の発展の要因といえるだろう。当時イギリスは経済的にも政治的にも発展の途上にあり、英語という言語自体も新しい発展をとげていて、トマス・キッドやクリストファー・マーロウといった劇作家たちが叙事的でダイナミックな戯曲を書いていた。しかし、なんといっても演劇史を代表する存在は、シェイクスピアである。シェイクスピアについては、いまさら説明...