始めに〜タイトルの由来〜
よく「私は人生そんな長く生きていないから人生なんて語れない。」と口にする人がいる。しかし私はどんなに乏しい人生経験であろうと、それを語る価値は十二分にあると思う。ただそれが完全な形ではない、あくまで途中経過であるだけなのだ。そして人生の中で私たちは「再考」を繰り返す。私たちはひとつひとつに何かを感じ、多少なりとも自分の考え方を変えていく。そしてこのレポートもまた、途中経過でしかない。十八の、あるいは2003年7月28日の私の人生観でしかないのだ。このいっときの「私」をフランクルの思想を元に紐解いていこうと思う。
「生産的」ではなくなった生命
フランクルによれば、強制収容所では、「『生産的』ではなくなった生命はすべて、文字通り『生きる価値がない』とみなされた」(1)と言う。一見それは偏ったあるいはあくまで「昔」の考え方のように思える。しかし、ここで私があえて再考したい理由。それはまだ今の世の中にも少なからずこのような考え方が残っているのではないか、と考えるからだ。
ここで少し尊厳死について考えてみたい。尊厳死とは、近年延命技術の進歩により人間の尊厳あるいは人間らしさが無視された治療が行われていることに対して提唱された、人間の尊厳を守った上での死である。このような考え方が出、技術ばかりに走る医学に歯止めをかけられたことは良いことだと私は思う。しかし一方で、この考え方が行き過ぎてしまうのには懸念を感じるのだ。たとえば尊厳死を「人間としての質を守るための死」という風に捉えたとする。確かに一理あるだろう。しかし一方で、これを誇張しすぎると「人間としての質−例えば考えること、話すこと、歩くこと−が伴っていない人はどうなるのか?」という疑問がわいてくるのだ。現に胎内の子供が障害を持っていると分かると中絶してしまうがいるではないか。
十八の足跡~生きることの再考~
始めに~タイトルの由来~
よく「私は人生そんな長く生きていないから人生なんて語れない。」と口にする人がいる。しかし私はどんなに乏しい人生経験であろうと、それを語る価値は十二分にあると思う。ただそれが完全な形ではない、あくまで途中経過であるだけなのだ。そして人生の中で私たちは「再考」を繰り返す。私たちはひとつひとつに何かを感じ、多少なりとも自分の考え方を変えていく。そしてこのレポートもまた、途中経過でしかない。十八の、あるいは2003年7月28日の私の人生観でしかないのだ。このいっときの「私」をフランクルの思想を元に紐解いていこうと思う。
「生産的」ではなくなった生命
フランクルによれば、強制収容所では、「『生産的』ではなくなった生命はすべて、文字通り『生きる価値がない』とみなされた」(1)と言う。一見それは偏ったあるいはあくまで「昔」の考え方のように思える。しかし、ここで私があえて再考したい理由。それはまだ今の世の中にも少なからずこのような考え方が残っているのではないか、と考えるからだ。
ここで少し尊厳死について考えてみたい。尊厳死とは、近年延命技術の進...