『近世初期の対外関係について』
室町の終わりから織田政権下にかけて、海外から宣教師が来日する。十五世紀にヨーロッパではじまった「大航海時代」の波が、十六世紀半ばに極東の地日本にも押し寄せてくる。天文十二年(一五四三年)ポルトガル人が種子島に上陸し、鉄砲を伝えた。これが初めて日本に来たヨーロッパ人である。これをきっかけに南蛮貿易がはじまった。南蛮の語源はポルトガル人が南から船で渡ってきて、また身なりが当時の日本の基準からすると野暮ったいと見られたためとされている。
ここにはじめて日本とヨーロッパとの関係がうまれたのである。
当時のポルトガル・スペインの海外進出は、貿易とキリスト教の布教を結びつけて進められた。キリスト教の布教は、天文十八年(一五四九年)鹿児島に上陸したフランシスコ=ザビエルによってはじまる。
織田政権下ではキリスト教は基本的に弾圧を受けずに、信長は仏教諸派やキリスト教との間に距離をおきながら全ての宗教勢力を支配下に置こうとした。南蛮貿易も積極的に行われ、ヨーロッパの文化が日本に入ってくることとなった。
織田政権下に続いて豊臣政権下でも南蛮貿易は行われていたが、土佐国にスペイン船サン・フェリペ号が漂着した時、乗組員からヨーロッパ諸国がキリスト教の布教活動によって植民地拡大を狙っているという話が伝わり、
また一部のキリシタン大名によって、入信の強制や神社仏閣の破壊、僧侶の弾圧や日本人奴隷貿易などが行われているとし、天正十五年(一五八七年)に人身売買の禁止・キリスト教宣教師の追放・キリスト教布教の厳禁といったバテレン追放令が出された。しかし、南蛮貿易の継続や宗教に関係のない南蛮人は商人以外でも来日を認めるといった内容のため、実際の効果は薄かったといわれている。秀吉の狙いとしては、禁教令の効果よりも、日本人奴隷貿易の禁止と、キリシタン大名による南蛮貿易独占を打破することであった。
キリスト教は弾圧するが、貿易は推奨しているという点からは織田政権下と相反するものである。
それとともに、豊臣秀吉は朝鮮やルソン・ゴア・高山(台湾)などに入貢・服属を要求し、これが不成功に終わると渡海朱印制度を定めた。
また、秀吉は天下統一を果たすと明を征服しようと考え、足がかりとして朝鮮侵略を試みる。天正二十年(一五九二年)に漢城を攻め取ったとの報に、秀吉はアジア征服の大構想を打ち立てる。しかし、明の援軍と朝鮮の義軍と民衆の抵抗で戦況は逆転し、文禄二年(一五九三年)に和議が起こり日本軍は引き上げる。明の講和条件に激怒した秀吉は、慶長二年(一五九七年)に朝鮮に大軍を送り込むも苦戦が続き、慶長三年(一五九八年)に秀吉の病死を機に日本軍は朝鮮から引き上げて、朝鮮出兵は終わった。
徳川家康は秀吉の死後、関ヶ原の戦いに勝利し、江戸幕府を開いた。慶長六年(一六○一年)からは朱印状が発行され、朱印船貿易が展開した。朱印状は中国人やヨーロッパ人にも与えられたが、多くの日本商人たちが朱印船貿易によってアジア各地に進出し、根拠地として各地に日本人町をつくった。
また、ちょうど大阪の陣の頃幕府はイギリス・オランダの貿易を拡大して布教と貿易の分離を実現していった。慶長十四年(一六○七年)にはオランダと、慶長一八年(一六一一年)にはイギリスとの貿易がはじまった。
朝鮮とは慶長十四年(一六○七年)に通商条約(己酉約定)を結び、明船も慶長十六年(一六○九年)には長崎に来て、東アジア諸国・地域との交流がはじまった。
このようにポルトガル・スペイン・オランダ・イギリス・中国・琉球・朝鮮、日本、東南
『近世初期の対外関係について』
室町の終わりから織田政権下にかけて、海外から宣教師が来日する。十五世紀にヨーロッパではじまった「大航海時代」の波が、十六世紀半ばに極東の地日本にも押し寄せてくる。天文十二年(一五四三年)ポルトガル人が種子島に上陸し、鉄砲を伝えた。これが初めて日本に来たヨーロッパ人である。これをきっかけに南蛮貿易がはじまった。南蛮の語源はポルトガル人が南から船で渡ってきて、また身なりが当時の日本の基準からすると野暮ったいと見られたためとされている。
ここにはじめて日本とヨーロッパとの関係がうまれたのである。
当時のポルトガル・スペインの海外進出は、貿易とキリスト教の布教を結びつけて進められた。キリスト教の布教は、天文十八年(一五四九年)鹿児島に上陸したフランシスコ=ザビエルによってはじまる。
織田政権下ではキリスト教は基本的に弾圧を受けずに、信長は仏教諸派やキリスト教との間に距離をおきながら全ての宗教勢力を支配下に置こうとした。南蛮貿易も積極的に行われ、ヨーロッパの文化が日本に入ってくることとなった。
織田政権下に続いて豊臣政権下でも南蛮貿易は行われていたが、土佐国にスペ...