秦の天下統一の意義
後世でも中国が一個の統一した国家として存在するときには、いつでも秦王朝が定めた枠組みが踏襲されている。
まず、第一に秦王朝の天下統一の意義は、二十世紀初めの清末まで続いた皇帝独裁と中央集権的官僚制による支配形式が確立されたことであろう。
秦王朝が統一王朝の主にふさわしい呼称として「皇帝」という称号を創設した。旧来の王という呼び方では、秦が滅ぼしてきた他の六国でも用いられていたので、諸国の上に立つ王としては適当ではない。そこで古代の三皇と五帝の徳を兼ね備えるとの意味で「皇帝」と定めたとされている。
かつ、皇帝の自称も「朕」という皇帝専用の言葉が創設された。もとは広く一人称の代名詞であるが、秦王朝以後は皇帝以外には使用できなくなった。
秦王朝が定めた中央集権的官僚制の枠組みついては、中央政府は丞相・太尉・御史大夫が置かれ、それぞれ行政・監察・軍事をつかさどった。その下に九卿とよばれる諸部署を配置した。この枠組みは次の漢王朝も採用した。
地方の統治には「郡県制」を採用した。各地を三十六郡に分け、郡の下には県を置き、郡県の長官である群守・県令は全て中央から派遣された役人が就任した。
郡には守・監・尉が置かれ、それぞれ行政・監察・軍事をつかさどった。中央の丞相・大尉・御史大夫と同様に行政・司法・軍政の三権分立の祖となったと思われる。
秦王朝以前の周王朝では「封建制」という統治方法が採られていた。周王朝の「封建制」とは王の一族や功臣に土地を与えて統治させる方法である。周王朝は宗法制と呼ばれる一族内の祖先祭祀・服喪・相互扶助などの方法を規定したものを用いて血縁関係の強化に努め「封建制」を強固なものにしようとしたと思われる。世襲制によって領有を認めた点からも、周王朝の「封建制」は一族を中心とした統治であったいえるだろう。「封建制」を用いた周王朝も辺境の諸侯に対する中央の威令がおよばなくなってくると、中央の政治権力の強化につとめる。しかし、これが諸侯から反発を受けることとなる。その後、北方民族の侵入などにより周王朝は都を洛陽に移した。いわゆる周の東遷でここから春秋・戦国時代の幕開けである。
春秋・戦国時代は各地の諸侯はそれぞれ独立国となり、周王朝の権威は名目上のものとなった。諸侯は富国強兵を共通目標として、天下の覇権を争う地位を占めようと考え、積極的に有能な人材を登用しようと考えた。もはや有能な人材を登用するにあたり、身分の上下に関わりなく、先祖代々の自国民であるかどうかも問題ではなく、優れた技能見識のみを必要とした。これこそが官僚制の発展をもたらして、中央集権的官僚制を生み出す契機となったのであろう。そして戦国時代にもっとも富国強兵に成功した秦が天下を統一する。
秦王朝が採用した「郡県制」では、周王朝の「封建制」のように諸侯が世襲することはできず転任制を採用した。この転任制から、周王朝が一族を中心とした統治であったのに対し、秦王朝は一族を排した統治といえるだろう。
この「郡県制」は郡県の長官である群守・県令は全て中央から派遣された役人が就任するという点から、中国全土の土地・人民を皇帝自らが直接統治することを意味するものである。
次に文化政策の面から中央集権的官僚制について見ていくと「焚書坑儒」がある。
「焚書」とは秦王朝の言論統制政策である。秦王朝の博士の淳于越が郡県制に反対し、周王朝の採った封建制を主張した。しかし、丞相の李斯は法家の韓非子の影響が見られ、過去の書籍の教えは有害無益なもので、重要なのは法であると説いた。李斯は過去の事例で現在
秦の天下統一の意義
後世でも中国が一個の統一した国家として存在するときには、いつでも秦王朝が定めた枠組みが踏襲されている。
まず、第一に秦王朝の天下統一の意義は、二十世紀初めの清末まで続いた皇帝独裁と中央集権的官僚制による支配形式が確立されたことであろう。
秦王朝が統一王朝の主にふさわしい呼称として「皇帝」という称号を創設した。旧来の王という呼び方では、秦が滅ぼしてきた他の六国でも用いられていたので、諸国の上に立つ王としては適当ではない。そこで古代の三皇と五帝の徳を兼ね備えるとの意味で「皇帝」と定めたとされている。
かつ、皇帝の自称も「朕」という皇帝専用の言葉が創設された。もとは広く一人称の代名詞であるが、秦王朝以後は皇帝以外には使用できなくなった。
秦王朝が定めた中央集権的官僚制の枠組みついては、中央政府は丞相・太尉・御史大夫が置かれ、それぞれ行政・監察・軍事をつかさどった。その下に九卿とよばれる諸部署を配置した。この枠組みは次の漢王朝も採用した。
地方の統治には「郡県制」を採用した。各地を三十六郡に分け、郡の下には県を置き、郡県の長官である群守・県令は全て中央から派遣された役人が就...