「コリントの信徒への手紙 一 11章17節-30節」による聖餐論

閲覧数1,427
ダウンロード数2
履歴確認

    • ページ数 : 3ページ
    • 会員550円 | 非会員660円

    資料紹介

    パウロはこの箇所で言及している「主の晩餐」という言葉には、現代のキリスト者が用いる「聖餐」と「愛餐」という区別は存在しない。主の晩餐の象徴するパンと杯の分配は、教会における儀式ではなく、普通の食事の一部として行なわれていた。それゆえパウロはこの箇所で「聖餐論」を展開しているのではない。その食事の様子から明らかになるコリント教会の問題である。その問題を、「わたしはあなたがたをほめるわけにはいきません」(17節)と、パウロは批判する。コリントの人々が集まる時、「お互いの間に仲間割れ」があり、「集まりが、良い結果よりは、むしろ悪い結果を招いている」ことを聞いたパウロは、彼らに対して警告をしている。「わたしもある程度そういうことがあろうかと思います。」というパウロの言葉は、このコリントの人々の状況に少なからず驚きを感じていることを表している。

    資料の原本内容 ( この資料を購入すると、テキストデータがみえます。 )

    「コリントの信徒への手紙 一 11章17節-30節」による聖餐論
    パウロはこの箇所で言及している「主の晩餐」という言葉には、現代のキリスト者が用いる「聖餐」と「愛餐」という区別は存在しない。主の晩餐の象徴するパンと杯の分配は、教会における儀式ではなく、普通の食事の一部として行なわれていた。それゆえパウロはこの箇所で「聖餐論」を展開しているのではない。その食事の様子から明らかになるコリント教会の問題である。その問題を、「わたしはあなたがたをほめるわけにはいきません」(17節)と、パウロは批判する。コリントの人々が集まる時、「お互いの間に仲間割れ」があり、「集まりが、良い結果よりは、むしろ悪い結果を招いている」ことを聞いたパウロは、彼らに対して警告をしている。「わたしもある程度そういうことがあろうかと思います。」というパウロの言葉は、このコリントの人々の状況に少なからず驚きを感じていることを表している。しかしその直後の「だれが適格者かはっきりするためには、仲間争いも避けられないかもしれません。」というパウロの冷静な意見からは、これも神の計画のために避けられない事態であることを認めてもいるこ...

    コメント0件

    コメント追加

    コメントを書込むには会員登録するか、すでに会員の方はログインしてください。