バプテスマを宣教の根拠として論じている本書は、典礼論というよりも、むしろ宣教論がそこで展開されている。そして特に印象深かったことは、デーヴィスが「聖化」について、バプテスマをその基礎に置く宣教という概念を含むものとして論じていることである。
それも、初期キリスト教会以来、保持してきた本来的な意味での「聖化」として。「すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにしては誰も主を見ることが出来ないからである(ヘブライ人への手紙12:14)」。それは「普遍的な平和と愛を追い求めること」を前提条件として、「たんなる倫理的なるものを越えた内容を持つもの」である。それと同時に、「主を見る」という救いのための宣教的概念を示している。
そのように「バプテスマと聖化と宣教は、一つの全体的現実の三つの側面である」という包括的な理解は、「聖化」だけではなく、「バプテスマ」と「宣教」に関しても、狭い個人的な領域へと、その意味を歪曲してしまうことを防いでくれる。もしそのような理解を怠れば、個人的な「聖」――「教会が日常的な人間関係から自己を遮断することによって確保する、純粋さの度合いに応じてはかれられる性質をもつもの」――に留まってしまうであろう。
J・G・デーヴィス『現代における宣教と礼拝』ブックレポート
バプテスマを宣教の根拠として論じている本書は、典礼論というよりも、むしろ宣教論がそこで展開されている。そして特に印象深かったことは、デーヴィスが「聖化」について、バプテスマをその基礎に置く宣教という概念を含むものとして論じていることである。
それも、初期キリスト教会以来、保持してきた本来的な意味での「聖化」として。「すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにしては誰も主を見ることが出来ないからである(ヘブライ人への手紙12:14)」。それは「普遍的な平和と愛を追い求めること」を前提条件として、「たんなる倫理的なるものを越えた内容を持つもの」である。それと同時に、「主を見る」という救いのための宣教的概念を示している。
そのように「バプテスマと聖化と宣教は、一つの全体的現実の三つの側面である」という包括的な理解は、「聖化」だけではなく、「バプテスマ」と「宣教」に関しても、狭い個人的な領域へと、その意味を歪曲してしまうことを防いでくれる。もしそのような理解を怠れば、個人的な「聖」――「教会が日常的な...