江戸時代には、およそ300近い藩(大名家)が存在し、幕府の強い統制を受けながらも、それぞれの藩が独自の軍事力を有し、領内で独立した政治をおこなっていた。つまり、我が国には300近い小国家が分立していたと言っても過言ではないのである。
これは教育についても同様なことがいえた。江戸幕府は、教育に関しても各藩に強い統制を加えることはしなかった。
現在のように、文部科学省を頂点として国歌が国民全体の教育を統括するような管理教育体制は、江戸時代の人間には到底想像もできない構図であろう。
なんとも不思議なことだが、政権を獲得して100年が過ぎても、江戸幕府は、幕臣にさえ統一的教育を施そうと真剣に考えた形跡がない。そんなふうであったから、ましてや各藩の教育に口をはさむなど思いもよらなかったのだろう。
幕府は、儒教の朱子学を幕臣に奨励しつつも、それを旗本や御家人の子弟に施す教育施設をつくらなかった。だから幕臣は、各自の責任でそれぞれが選んだ家塾に通って武士として恥ずかしくない教養を身につけたのだ。 現在、文科省が作成した学習指導要領は、公立学校の絶対的な規準となっているが、江戸時代はこのように、教育に関しては各藩に一任されていたのだ。こうした放任的教育主義を幕府が採用していたため、各藩では独自に藩士の子弟教育を展開し、それがために諸藩における独特の風土がつくられ、特に支配階級たる武家の士風は、藩によって大きく異なるようになった。
「藩校について述べよ。」
江戸時代には、およそ300近い藩(大名家)が存在し、幕府の強い統制を受けながらも、それぞれの藩が独自の軍事力を有し、領内で独立した政治をおこなっていた。つまり、我が国には300近い小国家が分立していたと言っても過言ではないのである。
これは教育についても同様なことがいえた。江戸幕府は、教育に関しても各藩に強い統制を加えることはしなかった。
現在のように、文部科学省を頂点として国歌が国民全体の教育を統括するような管理教育体制は、江戸時代の人間には到底想像もできない構図であろう。
なんとも不思議なことだが、政権を獲得して100年が過ぎても、江戸幕府は、幕臣にさえ統一的教育を施そうと真剣に考えた形跡がない。そんなふうであったから、ましてや各藩の教育に口をはさむなど思いもよらなかったのだろう。
幕府は、儒教の朱子学を幕臣に奨励しつつも、それを旗本や御家人の子弟に施す教育施設をつくらなかった。だから幕臣は、各自の責任でそれぞれが選んだ家塾に通って武士として恥ずかしくない教養を身につけたのだ。 現在、文科省が作成した学習指導要領は、公立学校の絶対的な規準とな...