反日気運が盛り上がる中、安重根は伊藤博文のハルビン訪問のニュースを知り、暗殺計画を企てる。この時安は伊藤暗殺の理由として15条の罪状を挙げている。主なものとしては閔妃殺害、第二次日韓協約による外交権の剥奪、第三次日韓協約による内政権の剥奪、高宗の廃位、軍隊の解散などだ。一言で言えば「伊藤博文は韓国のみならず東洋の平和を乱した。それによって天誅を下した」というわけだ。
しかし、暗殺は私怨のためでは決してないと安は言う。一貫して、個人的な恨みではなく韓国の独立と東洋平和の維持のためであると主張した。安は「東洋平和論」構想を持っていた。
安重根の思想と行動
1909年10月26日、ハルビンにて伊藤博文が安重根に暗殺された。当時はいったいどのような時代であったのか。1905年の日露戦争終結とともに、韓国では日本による植民地化が始まっていた。これに対して韓国では激しい対日抵抗運動が起きた。日露戦争当初、日本は韓国の独立と東洋平和を守ることを大義として掲げていただけに、その真逆の結果ともいえる植民地化に対し、韓国民が一層憤ったのは想像に難くない。抵抗の形も様々であったが、その怒りがもっとも激しい形となったのが武力を用いた義兵運動であった。日本による韓国軍隊の解散はこの義兵運動をますます大きくなっていった。解散した軍隊が運動に加わっていったからである。
反日気運が盛り上がる中、安重根は伊藤博文のハルビン訪問のニュースを知り、暗殺計画を企てる。この時安は伊藤暗殺の理由として15条の罪状を挙げている。主なものとしては閔妃殺害、第二次日韓協約による外交権の剥奪、第三次日韓協約による内政権の剥奪、高宗の廃位、軍隊の解散などだ。一言で言えば「伊藤博文は韓国のみならず東洋の平和を乱した。それによって天誅を下した」というわけだ。
しかし、暗...