アリストテレスやプラトンは、人間の行為は目的の追求であるとした。目指すは究極の目的、すなわち最高善である。以下、アリストテレスの言う「目的論」、「徳」に対して、私見を述べたいと思う。
アリストテレスは、行為には目的があり、その目的にもまたさらなる目的があるとした。そしてその目的手段の連鎖の果てが最高善だと考えた。しかし、全ての行為がその連鎖を持つとは限らないではないか、という意見もある。目的の連鎖は終わらなければならないとアリストテレスは言うが、そもそも連鎖自体が必ずしも存在しないのではないか、と。例えば「食べる」という行為。この行為の目的は「空腹を満たす」である。ではなぜ「空腹を満たす」のか。空腹が続けばやがて餓死してしまう。すなわち「生きる」ためだ。ではなぜ「生きる」のか。この問題は、そもそも行為論における最初の問題であり、私たちは振り出しに戻ってしまうことになる。つまり、「食べる」という行為においては目的を連鎖させることができない、と言えないだろうか。このように、「さらなる目的を待たない目的」しか持たない行為は多く存在すると思う。
基礎倫理学 4学期末レポート
アリストテレスやプラトンは、人間の行為は目的の追求であるとした。目指すは究極の目的、すなわち最高善である。以下、アリストテレスの言う「目的論」、「徳」に対して、私見を述べたいと思う。
アリストテレスは、行為には目的があり、その目的にもまたさらなる目的があるとした。そしてその目的手段の連鎖の果てが最高善だと考えた。しかし、全ての行為がその連鎖を持つとは限らないではないか、という意見もある。目的の連鎖は終わらなければならないとアリストテレスは言うが、そもそも連鎖自体が必ずしも存在しないのではないか、と。例えば「食べる」という行為。この行為の目的は「空腹を満たす」である。ではなぜ「空腹を満たす」のか。空腹が続けばやがて餓死してしまう。すなわち「生きる」ためだ。ではなぜ「生きる」のか。この問題は、そもそも行為論における最初の問題であり、私たちは振り出しに戻ってしまうことになる。つまり、「食べる」という行為においては目的を連鎖させることができない、と言えないだろうか。このように、「さらなる目的を待たない目的」しか持たない行為は多く存在すると思う。なぜなら、「さら...