ロシアの文化と社会を考える上で、歴史上の事実と文学は密接な関係にあるということを念頭におきたいと思う。歴史的観念からいうとロシアは歴史が古く、一度モンゴル人に征服されたもののノヴゴロド公国が設立してから現在のロシア連邦に至るまで、諸外国から様々な影響を受けつつも独自の文化を築いてきた。
私が一番興味をそそられるのは、19世紀のロシアであり、それに近い時代に創作された文学だ。19世紀当時、ロシアはロマノフ朝の絶対主義支配が続いていたが、その頃にはドストエフスキーによる「罪と罰」や、トルストイによる「戦争と平和」などの非常に有名な作品が生み出されている。最後の皇帝、ニコライ2世が支配していた時代のロシアで書かれた作品とはとても意義深いものなのではないのだろうか。その中でも、私はドストエフスキーの「罪と罰」に感銘を受け、読了してその時代のロシアに様々な思いを馳せた。ここではそのことに関して述べたいと思う。
ドストエフスキーは、結果としてシベリアに流刑されたが、革命運動参加するなど啓蒙主義を持つ人間であった。彼の描く人物たちはどれもが刹那的で実際の人間よりも人間らしい。これがあの当時の人々を如実に表しているのだ、と考えるのは短絡的だろうか。しかし、そう考えて「罪と罰」を読みすすめていくのはとても楽しいものだった。ドストエフスキーによる罪と罰に対する考え、ここではそれを深く言及していきたい。
この小説において罪とは、ラスコーリニコフ、つまりは主人公が二人の人間を殺したことである。しかしこの小説を読み終えても明確な罰は出てこなかった。最終的にラスコーリニコフは自首しシベリアで服役するが、それは小説のエピローグでありその後の話に過ぎない。罰が法的なものではないとするのならば、では罰とは何を表すのだろうか。
ラスコーリニコフは金貸しの老婆を殺害することを計画するが、それは『一個の些細な犯罪は、数千の善事で償える』といった彼の理論から成り立ったものだ。老婆の詩によって多くの利益が発生するからこそラスコーリニコフはその罪を犯そうとする。彼はその理論によって老婆を殺害した後の罪悪感から逃れられるはずだったが、不意にリザヴェータをも殺害してしまったことから、その行為が罪になったのだと私には思えた。老婆は生きる価値のないしらみであるが、リザヴェータは違う。そのことをよく知りながら犯行に踏み入ったラスコーリニコフだからこそ、この罪が彼を苦しめていったのだろう。主人公は貧困の肉体労働者や教育を受けていない人間ではなく、貧困の元大学生であり、その賢さから周りの人々、例えばラズーミヒンから尊敬を勝ち得ている。前者を卑下するつもりはないが、頭脳明晰である彼だからこそ、の「罪と罰」なのではないかと思う。彼は老婆の殺害にあたり、外套の輪や偽の質草を用意しているが、このような準備から彼の頭の中では完全犯罪が計画されているということが窺える気がした。ただ、そういう人間が罪を犯す時ほど、予想外の出来事が起きるとその対処が出来なくなるように思える。しかもラスコーリニコフは正義を行おうとして罪を犯してしまったのだから尚更だろう。
私はラスコーリニコフは善良な人物だと思う。少なくとも、老婆に生きる価値はないと冗談交じりに喋っている人間たちよりは善良な性質をしている。しかし、小説を読み進めるうちに、そもそも罪とはなんなのだろうという思いが浮かんできた。そして何より、この小説を読んでいくうちに、彼の思想に毒されていく自分がいることに気づいたのだ。人を殺すことは罪になる。だが、その行為で多
ロシアの文化と社会を考える上で、歴史上の事実と文学は密接な関係にあるということを念頭におきたいと思う。歴史的観念からいうとロシアは歴史が古く、一度モンゴル人に征服されたもののノヴゴロド公国が設立してから現在のロシア連邦に至るまで、諸外国から様々な影響を受けつつも独自の文化を築いてきた。
私が一番興味をそそられるのは、19世紀のロシアであり、それに近い時代に創作された文学だ。19世紀当時、ロシアはロマノフ朝の絶対主義支配が続いていたが、その頃にはドストエフスキーによる「罪と罰」や、トルストイによる「戦争と平和」などの非常に有名な作品が生み出されている。最後の皇帝、ニコライ2世が支配していた時代のロシアで書かれた作品とはとても意義深いものなのではないのだろうか。その中でも、私はドストエフスキーの「罪と罰」に感銘を受け、読了してその時代のロシアに様々な思いを馳せた。ここではそのことに関して述べたいと思う。
ドストエフスキーは、結果としてシベリアに流刑されたが、革命運動参加するなど啓蒙主義を持つ人間であった。彼の描く人物たちはどれもが刹那的で実際の人間よりも人間らしい。これがあの当時の人々...