自然科学史Ⅱ
『インドの伝統天文学について』
はじめに
旧大陸における近代以前の伝統天文学には、古代地中海世界からイスラーム世界を経て西欧に至る流れ、インドを中心とした南アジアの流れ、そして中国を中心とした東アジアの流れがあった。これらは相互に影響しあいながら発展していった。特に、インドの伝統天文学は、豊富な文献資料が残っているだけではなく、今日まで民間暦などの形でかなり伝統が保存されており、文献研究などの外面からの理解だけでなく、内面からの理解に接近することも可能であり、興味深い分野となっている。
ヴェーダ時代の天文学
インダス文明が衰退した後のインドにはアーリヤ人が侵入し、まずインド西北のパンジャーブ地方に居住した。そこで、ヴェーダ文献の中の最古のものである『リグ・ヴェーダ』が形成された。これは一種の宗教文献であるが、その中から、当時の暦法が太陰太陽暦であったこと、雨季の開始が年の区切りとされていたこと、月が星々の間をめぐっていたことが注目されていたことなどを知ることができた。
ヴェーダ時代を、リグ・ヴェーダ時代と後期ヴェーダ時代に分けるとすると、後期ヴェーダ時代には、黄道に沿って27または28の星宿の体系が確立した。また、一年間での太陽の南北への動き(日の出の方向の変化など)も注目された。
ヴェーダーンガ時代の天文学
ヴェーダーンガ時代における天文学では、『ヴェーダーンガ・ジョーティシャ』というサンスクリット語文献が現存しており、ここにおいて、インドで天文学が独立した学問分野として成立したといえるようになったのである。
ヴェーダーンガ天文学は、北インドにおける観測に基づいて独自に形成されたものであり、ある時期にはかなり広く用いられていた。しかし、その暦法の精度は、5年以上用いればだんだん誤差が目立ってくるようなものだったので、ときどき経験的な調整が必要だった。このようなヴェーダーンガ天文学は、紀元後2~4世紀ころまでは使われていたと思われる。ちなみにそのころは、バラモン教が変化してヒンドゥー教が形成されつつあった時期で、スメール山を中心とする世界観が形成されていった。ちょうどそのころ、インドには西方からギリシャ系の占星術・天文学が伝来し、インド天文学は大きく変化していくのである。
ギリシャ系占星術・天文学の伝来
ギリシャ系のホロスコープ占星術は、紀元後2世紀ころにインドに伝来したと考えられている。そして、インドに、周転円や離心円を用いる本格的なギリシャ系数理天文学が伝来したのは、その前後の状況から見て、ほぼ4世紀ころであり、『パンチャ・シッダーンティカー』という文献によって知ることができる。これは、その当時の天文学5種をまとめたものである。ギリシャ系の天文学の伝来によって、地球が丸いということも把握されるようになった。ギリシャ系占星術が伝来した初期のころには、ヴェーダーンガ天文学を基本としつつもギリシャ形の概念も若干取り入れた天文学として存在していた。しかし、ギリシャ系数理天文学が伝来すると、ヴェーダーンガ天文学は急速に廃れ、インド天文学は新しい方向へと向かっていったのだ。
ヒンドゥー古典天文学
インドでは、5世紀末にヒンドゥー古典天文学が成立した。これは、地球を中心とする、周転円や離心円を用いる惑星モデルによって、惑星の位置を計算するものである。その計算には、インドで考案された三角関数が利用される。ヒンドゥー古典文学は、ギリシャ系天文学を取り入れ、その後は独自に発展をとげた。
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旧大陸における近代以前の伝統天文学には、古代地中海世界からイスラーム世界を経て西欧に至る流れ、インドを中心とした南アジアの流れ、そして中国を中心とした東アジアの流れがあった。これらは相互に影響しあいながら発展していった。特に、インドの伝統天文学は、豊富な文献資料が残っているだけではなく、今日まで民間暦などの形でかなり伝統が保存されており、文献研究などの外面からの理解だけでなく、内面からの理解に接近することも可能であり、興味深い分野となっている。
ヴェーダ時代の天文学
インダス文明が衰退した後のインドにはアーリヤ人が侵入し、まずインド西北のパンジャーブ地方に居住した。そこで、ヴェーダ文献の中の最古のものである『リグ・ヴェーダ』が形成された。これは一種の宗教文献であるが、その中から、当時の暦法が太陰太陽暦であったこと、雨季の開始が年の区切りとされていたこと、月が星々の間をめぐっていたことが注目されていたことなどを知ることができた。
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